批評家・福嶋亮大が語る、メタメディア時代の戦術「実存主義はサルトルで終わったのではなく、むしろここからが本番」
批評家・福嶋亮大による新刊『メディアが人間である 21世紀のテクノロジーと実存』が、2025年10月3日(金)に株式会社blueprintより刊行された。
同書は、当サイト「リアルサウンド ブック」にて連載された福嶋亮大の論考「メディアが人間である」に大幅な加筆・修正を加えたもの。脳、人工知能、アート等も射程に収めつつ、マーシャル・マクルーハンのメディア論やジャン・ボードリヤールのシミュラークル論のアップデートを試みた意欲作だ。
SNSや生成AIが発展する現代において、メディア論はいかに刷新すべきか。キルケゴールをはじめとした19世紀の思想家に注目する理由とは。本書の狙いについて、著者の福嶋亮大に詳しく話を聞いた。(編集部)
旧メディア論から新メディア論への転換
――『メディアが人間である 21世紀のテクノロジーと実存』は、2024年9月から本サイトにてスタートした連載エッセイに、書き下ろしを加えて一冊にまとめたものです。人間とテクノロジーの関係について、本書は21世紀になって大きな変化が起きたとの認識に立ち、それを20世紀、さらには19世紀へと遡って考察しています。福嶋さんはそもそも、今回の連載をどのような形で構想したのでしょうか。
福嶋:この本はテック批評なんですが、目先の問題にとらわれるよりは、むしろ長期的な視野から「21世紀の時代精神」をドローイング(線画)するのが一番の狙いでした。そもそも、批評とは重厚な油絵というよりドローイングのようなもの。強いナラティブ(物語)で訴えるよりも、いわば「知的な神経回路」を制作する作業に近い。要は、線を引き直すことで思わぬつながりや反応が生じればいいわけです。今回は19・20・21世紀をそれぞれ主人公のように見立てて、メディア論の製図をやり直しました。
21世紀の精神はテクノロジー抜きにはあり得ませんが、その成立は19世紀、特に1830~40年代に遡れます。この時期にマスメディアが勃興し、計算機科学(チャールズ・バベッジ)や写真技術(ニエプス、ダゲール、タルボット)が現れ、モールスが電信を開発する。マルクスやキルケゴールのように体系を疑う≪反哲学者≫が輝いたのも、まさにこの時期です。この19世紀のコミュニケーション革命や哲学革命をひとまず「21世紀の起源」と考えたらどうか。
たとえば、マルクスの『資本論』は古典派経済学批判の本で、特に序盤の価値形態論が注目される。しかしそこには、南北戦争やレイシズムの批評もあれば、チャールズ・バベッジの分業論の分析もあったりして、ジャーナリスティックな話題も多いんです。ご存じのとおり、バベッジは計算機科学のパイオニアで「コンピュータの祖」などと言われるんですが、それとともに、当時の産業社会の第一線に立つ労働理論家なんですね。バベッジは労働の効率化や分業の仕組みづくりに取り組んだ。つまり、労働の問題と計算(アルゴリズム)の問題は、実は最初から不可分であり、マルクスはそれを批評した。ということは『資本論』はアルゴリズムへの批評の先駆けでもあったわけです。
そもそも、人間の知能は生物学的な所与ではなく、歴史的に構築されてきた面がある。それこそ、アルゴリズム的な情報処理を特権化する現代の知能の枠組みを作ったのがバベッジだとも言える。今のAIの本を見ると、だいたい脳の思考とコンピュータの思考が並列的に書いてありますね。でも、どういうタイプの知能が望ましいかは実は社会が決めているので、知能の問題を解くには工学や脳科学だけではまったく不十分であり、社会思想的なアプローチが必須です。要は、テック批評は社会思想であるべきで、マルクスとバベッジを同時に見渡すような広い視野が要るんですね。それが『メディアが人間である』の一つのメッセージです。
――AIの台頭などに見られる現代のテクノロジーと労働を巡る問題の萌芽は、すでに19世紀に見られた、と。「メディアが人間である」の章では、20世紀を代表するメディアのひとつとして「映画」を取り上げて、その非人間的な機械性について論じています。本書全体を見通す上でも重要な章ですね。
福嶋:本書では20世紀メディアを映画、21世紀メディアを情報テクノロジーに代表させています。映画は20世紀文化・芸術の王様ですが、そうなったのは必然ではなくて偶然ですね。映画は娯楽のために作られたものではないし、もしテレビがもっと早く発明されていたら、映画を素通りしてテレビが先に文化の中心になっても不思議はなかった。映画は文化史の偉大な寄り道なんです。
ちょうどベルナルド・ベルトルッチ監督の『ラストエンペラー』(1987年)の主人公・溥儀のようなもので、幼くして偶然に「20世紀の皇帝」になってしまったのが映画です。ラストエンペラーは確かにシネマの寓意にふさわしい。人間が生み出したのに、たまたま人間のコントロールをはるかに超えてしまったメディア――映画にはそういう「エイリアン」のような他者性がある。映画監督の濱口竜介の評論集『他なる映画と』(インスクリプト)にあった「映画を見るとなぜ眠くなるのか」という問いに対しても、映画が一種のラストエンペラー=エイリアンだから、という説明ができます。
一方で21世紀は、1950年代に人工知能を構想していた段階からすでに「人間中心主義」がある。人間の知能をいかに模倣するか、という発想ですね。技術者のヴァネヴァー・ブッシュの論文「As We May Think(われわれが思考するごとく)」(1945年)が典型ですが、今やOpenAIの最高経営責任者サム・アルトマンが「AIは世界のための脳だ」と豪語するようになった。今はAIが暴走して超人間化するという恐怖が語られるけれど、むしろAIは陰に陽に人間の知能に縛られながら進化してきた、という逆の問題設定が必要でしょう。
というわけで、僕は20世紀の映画こそをあえて「非人間的」と呼び、21世紀のAIを「あまりにも人間的な非人間」と呼んで区別しています。SF作家のスタニスワフ・レムの描いたソラリス――人間の欲望を鏡のように反射する惑星――がそのヒントになっています。
――現在のデジタル環境で言えば、SNSやAIのインターフェイスもまた、その「あまりにも人間的な非人間」に当たると。
福嶋:そう思います。人間と機械がお互い模倣してきたということですね。ここでもやはり知能を歴史的構築物と捉える視点が重要です。
実際、1950年代以降、計算機が知能の意味を大きく変えた。アラン・チューリングによるチューリング・マシンは、記号の背後の実体を想定することなく、計算を進める論理プログラムです。一定の手順で記号を操作し、計算が完了するまでそれが続く。この「背後のない」設計思想は、哲学用語で言い換えると「唯名論」(実在論の反対)にあたる。そして、この唯名論的なチューリング・マシンに物理的実体を与えたのがフォン・ノイマン型のコンピュータです。
こういう唯名論的な記号操作が、今度はインターネット時代の人間の知や行動に跳ね返ってくる。しかも、それがもっぱら悪い方向に出ている。要は、記号の背後はどうでもよく、ただ記号が連鎖し増殖すればよいという態度に居直っているわけです。要するに、我々は皆「チューリング・マン」なんですが、いわば「堕落したチューリング・マン」になってしまった。だから、事実に反する情報を垂れ流しても心が痛まなくなっている。
本書に帯文を寄せてくれた三宅陽一郎氏も、50年代以降のAI開発に人間中心主義的なイデオロギーが強く働いている、と大学のイベントで指摘していました。知能のあり方には本来いろいろあるのに、人間の特定の知能だけが特権化され、それに沿ってITやAIは進化してきた、と。しかし、その限界も今、露呈しつつあると思いますね。そういう視点から逆に、映画のような非人間的なメディア=知能を流行させた20世紀を再評価したらどうだろうか。なにせ、歴史はまっすぐ一本道で進むものではないですからね。歴史には脇道や獣道がいっぱいある。それを探し出すのが、知的チャレンジとしてとても楽しいわけです。
――本書はマクルーハンのメディア理論のアップデートであり、21世紀の「あまりにも人間的な非人間」を見据えた、新しいメディア論となっていると思います。「メディア史の美学的展望」の章で、福嶋さんはコンピュータを「メタメディア」であると位置付け、現在のメディア環境を用意した重要な要素として分析していますが、「メディア」と「メタメディア」の違いとは。
福嶋:マクルーハンは、20世紀のメディアを評して「メディアがメッセージである」というすばらしい標語を残した。メディアが世界を「拡張」した時代にふさわしい標語です。対して21世紀のメディアの法則は「人間の拡張」とは反対に「人間への転回」に置き換えられたように見える。「メディアが人間である」というタイトルはそこから来ています。
繰り返せば、20世紀は、映画や写真といったメディアの怪物性や他者性を味方につけて、生産的な力を引き出してきたわけです。アート批評が栄えたのも、このメディアの生産性や「拡張」の能力が強烈だったからです。一方、コンピュータからスマホ、AIに至るデジタルメディアの進化の流れは「メタメディアの勝利」です。メタメディアは何にでも擬態できるが自らは空無で、ただ変身能力だけがある。つまり、旧来のメディアが衰えて、なりすましのメディアが勝利した。そのせいで、技術は進歩しているのに、どこか閉塞感もぬぐえないわけですね。
スタンリー・キューブリック監督の『2001年宇宙の旅』(1968年)に出てくるコンピュータのHALは、当時の人々が考えたAIの自画像だった。しかし、21世紀の生成AIは「人物」の絵は無限に描けても、生成AI自身の自画像は描けない。AIは抽象的な数理モデルで、何にでもなりすませるけれども、AIそのものにはなれない。なぜなら、AIは「he/she」ではなく「it」だからです。この「it」としてのメタメディアのなかに、既存メディアが蓄積してきた成果がどんどん吸収されているように見える。
かくして、20世紀型のメディアやアート批評は背水の陣に追い込まれているわけです。そこでどう逆襲するか――それで僕はふたつ道があると思うんです。ひとつは20世紀メディアとは何であったかを改めて根底的に理解する道。もうひとつはメディアの「外」に出る道です。
前者については、拙著『世界文学のアーキテクチャ』(PLANETS)で、小説というメディアの核心を描き直すことを試みました。いまどき文学論をやるならば中途半端ではダメで、とにかくその存在理由から徹底的にやらないといけない。それは一応僕なりには実現できたと思っています。後者については、メディアの外を「実存」と置き換えて、特にキルケゴールの哲学に立ち返るという道を、この本の後半で論じました。メディアを基礎から考え直しつつ、メディアの外にも出る――それがメタメディア時代の戦術だと思う。
その意味では、『メディアは人間である』はいわば旧メディア論から新メディア論への転換を宣言した本でもあります。メディア論はここからが腕の見せ所というか、メディアになりすますAI=メタメディアが世界を席巻してからがむしろ本番なんです。これまでのように何となく既存のメディア論をなぞるだけではダメで、冒険的な試みが必要だと思う。ともかく、僕は人間を特別扱いすることなく、21世紀の問題とどう向き合い、どう乗り越えるかを考えたいんですね。
――福嶋さんが「it」と呼ぶ生成AIを、人間と異質の怪物のように捉え、ともすれば「god」とさえ呼ぼうとする議論についてはどう見ますか。たとえばユヴァル・ノア・ハラリは新刊『NEXUS 情報の人類史』で、生成AIが神のように振る舞う可能性について言及しています。
福嶋:ハラリは「it」を「god」だと勘違いしている。彼の難点は、宗教や神を認知能力とほぼ同一視してしまう点です。要は「すごく物知りな存在を神と呼ぼう」という浅薄な議論にすぎない。でも、人間が神を求めてしまうのは、認知能力だけでは解決ができない不条理や苦痛があるからで、その苦しみの表現として十字架上のイエスが現れる。高度な認知能力で何もかもが解決できるなら、イエスの受難について語る必要はないでしょう。
ハラリの議論はAIを批判しているけど、それ自体がAI的なので、その点ではネタニヤフ政権の時代にふさわしい知識人なんですよ。ハラリはネタニヤフを批判しますが、ユダヤ性をかなぐり捨ててハイテクの近代軍事国家の道を歩んでいる今のイスラエルと、結局は見事に共振している気がしますね。その意味では、ハラリよりも、ちゃんとしたユダヤ教哲学やシオニズム批判の本を読んだほうがいい。ヘッシェルの『人間を探し求める神』やヤコブ・ラブキンの『トーラーの名において』なんて結構面白いですしね。
AI時代に価値が上がる作家・思想家
ーー本書を読むと、21世紀のメディアについての分析に驚かされる一方で、失われゆく20世紀のメディアの豊かさも浮かび上がってきます。
福嶋:この本を書いて、自分はやっぱり20世紀のメディアが好きなのだと再確認しました。結局、20世紀の複製技術は「アウラ(複製芸術以前、一回性の芸術に備わっていた権威)の壊れ方がちょうどよかった」のだと思います。
レコードや映画はアウラを破壊したと言われますが、実際には結構残っていた。アウラを本当に破壊したのはスマホやAIでしょう。スマホやAIは、編集や加工が無限にできる一方、ありがたみがまったくなくなってしまう。20世紀のメディアは、ありがたみがある程度残っているからこそ、対象を尊重しつつ加工・編集する余地があった。映画・写真・レコードは、図らずも「ちょうどいいアウラの壊れ方」を実現したんだと思いますね。多くの人はAIをハイテク、写真や映画をローテクだと見なしがちですが、僕の考えは逆なんです。実は写真やレコードの方が、その世界の記録と編集能力においてずっとハイテクだ、と。
その一方「デジタル人文学」のように、デジタルの力で人文学をやるぞ、という発想はあまり好きではない。それは出来の悪い機械に近づくだけです。むしろ一度デジタルを経由して感覚・感受性・認知構造が変わった状態で過去のテクストを読むほうが、ずっと面白い。実際、AI/ネット時代にこそ輝く思想家がいると思うんですね。マルクスやキルケゴールはまさにそれだし、『世界文学のアーキテクチャ』で論じた『ロビンソン・クルーソー』のデフォーや『白鯨』のメルヴィルなどもそうです。AIに侵食された価値観の物差しを逆用して、古典的なテクストももっと面白く読み返せるはずです。
――AIを使って小説を書くなど、テクノロジーを直接的に利用して創作する動きもありますが。
福嶋:もちろん、僕はAIを捨てる必要はないと思っています。たとえば、AIがそこそこ面白い小説を書くようになれば、文学への変な幻想や文学賞の変な権威はなくなる。それでいいんですよ。
そもそも、生成AIが出てくる前にすでに、人類の著作物はいかにもAIで真似できそうなコンテンツに呑み込まれていたわけです。ハラリのベストセラーはまさにその典型です。AIはこの流れを加速させただけ。だから、令和の美術史や文学史は、ハッシュタグの流行の記述とほとんど変わらなくなるだろう、と本書では指摘しました。ちょっとシニカルに言えば、今の文学の読者は、小説を読んでいるようでいて、実はハッシュタグ的な指標を読んでいるだけというケースも多いんじゃないですか。
ただ、繰り返せば、AI時代に再発見されるべき作家・思想家はいると思うんですよ。そちらは豊かな理論的な可能性がある。たとえば、僕は18世紀フランスのディドロが好きなんですが、それは彼の『ラモーの甥』という小説がシミュレーショニズムの元祖だからです。
21世紀の時代精神とは「シミュレーショニズムの全面化」です。もっとわかりやすく言えば、「~的なもの」が満ち溢れるのが21世紀の特徴です。特にAIになると、写真ではなく「写真的なもの」、絵画ではなく「絵画的なもの」が本体をハイジャックする。ディドロの小説はまさにそれを先取りしています。主人公はラモーのような本物の音楽家には決してなれず、せいぜい「ラモー的なもの」でしかないんですね。同時代のルソーが近代的自我の人なら、ディドロは最初から「なりすまし」しかない、と見抜いていた。
――ディドロは本書で、21世紀的なシミュレーショニズムの先駆者として位置づけられていますね。また、ベンヤミンの評論「物語作家」(1936年)に関する議論も印象的です。ベンヤミンは100年近く前、人間の経験を伝達する形式としての「物語」の衰退と、それに取って代わる「情報」の台頭をいち早く指摘していた、と。
福嶋:ええ。なにせベンヤミンは「インフォメーション」という語を使っているので、驚くほど先見性がある。「物語」は記号の背後に「経験」があるが、「情報」は記号しかない、とベンヤミンは論じる。それにならえば、現代のソーシャルメディアは確かに陰謀論を含めて「物語」があふれているように見えますが、これもやはり「物語的なもの」、つまり「情報」が物語になりすましているわけです。
でも、物語か情報か、の二者択一は不毛です。本書では「物語」と「情報」の狭間にあるもう一つの伝達形式として「小説」を置きました。記号の背後に何かがあるような、ないような中間領域をつくってきたのが小説ではないか、と。それは今の「物語的なもの」とも似ているようで、やはり差異があると思うんです。
意外なことに、カントは小説の読者の特徴を「心ここにあらず」だと言っています。要は、小説を読んでいるとどうしても気が散るからダメみたいな批判ですが、むしろそこが小説の面白いところではないか。小説は情報を効率的に得ることを阻むほどにディテールが肥大化していて、読者の注意力を散漫にし、思考を脱線や戯れへと導いて、いわば「放心」の状態にしてしまう。しかし、気が散りながらも読み続けているうちに、なぜか得も言われぬ感動が生まれるわけです。昨今はアテンション・エコノミーに則ったコンテンツの設計が主流ですが、小説はアテンションがスカスカでも読者の心を動かせることを実証している。そこが面白いのではないか。
「グローバル・ヴィレッジ」という概念
――「私を運営する私ーーキュレーション・推し・身体」という章では、人々はSNSなどで自分の美学化に夢中で、自分というメディアの主人公であることを強いられている――と分析されています。美学は人間を自由にしてきたが、それが全面化した現在では扱いが難しくもある。
福嶋:ある理想を実現すると、今度はその理想に復讐されるという逆説ですね。キルケゴールふうに言うと「最良のものは最悪のものに似る」。生成AIだって今はまだ言語や画像を生成するだけですが、いずれ生命工学と結びついたときには、相当おぞましい問題が出てくるでしょう。ついでに言えば、今の日本も万博を礼賛しながら、排外主義のムードを蔓延させているのだから、まさに矛盾の塊です。
そう考えると、マクルーハンの「グローバル・ヴィレッジ」という有名な概念はやはり現代社会の秘孔をついています。マクルーハンは、電子ネットワークが惑星化すると、世界はむしろ村(ヴィレッジ)になると言った。エクスプロージョン(爆発的拡張)の時代が、電子時代にいきなり反転してインプロージョン(爆縮)の時代になったというわけです。ネットワークが広くなるほど狭苦しく感じるという21世紀の逆説を、あらかじめ的確に言い当てています。
哲学史的に言うと、「美学」はバウムガルテンやカント以来の重要な発明で、堅固な理性より感性の揺らぎを重視します。感性は不安定・不確定なんですが、だからこそクリエイティブでオープンな文化の源になる。ただ、今やこの感性的=美学的な心こそが、ビッグテックに追跡され収奪されやすいわけですね。
ただ、GoogleやAmazonみたいなビッグテックも、お金はあるが目的がないんですよ。結局、20世紀は共産主義という大きな「目的」や「計画」を掲げて大失敗したものだから、21世紀は新自由主義という「生成」の時代になった。市場の顧客の声を表向きは尊重し、それに沿うのが「善」になる。生成AIはそのネーミングからして、まさに21世紀の精神の到達点です。でも、そろそろ「生成」という価値観そのものの限界が露呈してくると思います。
ーー美学的な感性がテクノロジーによって単純に進歩するわけではなく、むしろ人々を不自由にする側面もあったというのは、多くの方が実際に感じていることだと思います。
福嶋:ただ「目的」や「権威」に回帰しなくても、抜け道はいろいろあります。たとえば、良いモノクロ写真は静かな佇まいの中に凄いエネルギーがある。「決定的瞬間」で有名なカルティエ=ブレッソンは、頭と目と心を同一の軸線で合わせて撮るなんて言うけど、それこそがハイテクです。データ生成としての「写真的なもの」と、世界そのものの生成の一瞬を捉える「写真」はやはり次元が違う。それはAIの時代にむしろはっきりするんじゃないですか。
繰り返しますが、AIを拒むのではなく、究極のメタメディアであるAIを前提に、もう一度メディアの本質を考え直すべきです。たとえば、押井守監督に『すべての映画はアニメになる』というインパクトの強い題の本がありますが、すべてがCG(絵画的なもの)になるというのは実は第一段階なんですね。第二段階はそのCGの制作が自動化されること。現に、AIは絵師たちを失業に追い込みかねない――かつて写真が絵画を脅かしたように、今は「写真的なもの」が「絵画的なもの」を脅かす構図になっている。
そもそも、写真には大きくふたつの特性――インデックス性(実在の対象を捉える力)と現像(世界を自動的にディベロップする力)があります。アニメやCGはインデックス性を衰退させたが、AIはデータの次元でむしろ「現像」の力を徹底している。今は『すべてのアニメは写真になる』という新しい本を書かないといけないでしょう。そう考えると、写真はとても面白いメディアだと思いますよ。
いまこそ実存を考えるべき時
――本書では、21世紀のメディア論における「実存」の重要性を指摘し、その先駆者としてキルケゴールを論じています。「グローバル・ヴィレッジのキルケゴール」という章では、1840年代のコペンハーゲンという、まさに爆縮した「グローバル・ヴィレッジ」のような都市で、キルケゴールがスキャンダルに塗れた人生を送っていたことが描かれますね。
福嶋:コペンハーゲンは当時ヨーロッパ有数の港町で、文化的にも黄金時代を迎えていた。チボリという有名なテーマパークも開業したばかりで、こちらはディズニーランドの先駆とも言われる。さらに、ゴシップの渦巻く劇場都市でもあったんですね。キルケゴールはコペンハーゲンの諷刺新聞(『コルサール』)を批判するんですが、逆に徹底的な反撃を受けて炎上する。キルケゴールの「実存」は、中産階級向けのエンターテインメントやゴシップが力を発揮し始めた都市で誕生した。
ただし、キルケゴールの「実存」は「俺を見ろ」という自己顕示ではないんですね。彼はアイロニーの思想家であって、複数の偽名=ペンネーム(今ふうに言えば複数のサブアカウント)で書く。つまり、キルケゴール本人はどこにもいない――分身を通して考えよ、という態度です。メディアの監視から逃れられない状況で、分身というかサブ垢を次々と作りながら反転のチャンスをうかがう。その反転にこそ「実存」の賭けがあったわけです。
ふつう実存主義というと20世紀のサルトルですが、サルトルはやはり世界戦争の時代の哲学者なので「無を到来させる人間の決断主義」みたいな感じになる。逆に、キルケゴールはメディア空間に徹底的に巻き込まれるなかで、実存を浮き彫りにする。ディドロ的なシミュレーショニズムの地獄に埋没するなかで、ふと背後を見れば全く違う風景が開ける――彼はそれを執拗に示そうとした。現代の我々も、メディアの情報のなかで次々と浮気しては遍歴する「ドン・ファン」みたいなものですが、それがふっと反転したときに、別の方向性が見えるかもしれない。もちろんサルトルも面白いんですが、僕としてはキルケゴールの実存の描き方がアクチュアルだと思うんですよ。
あと、キルケゴールが面白いのは「水平化」とか「抽象化」という概念ですね。キルケゴールは『現代の批判』で、公衆の世論は平べったい「抽象物」であり、具体的な顔を持たず、誰もその発言に責任をとらないうえ、公衆がどこまでも水平的に拡大していくと指摘している。21世紀のインターネットやAIという「it」の支配をすでに言い当てています。しかも、キルケゴールはそのような状況を嘆くのではなく、むしろ徹底していくことで、初めて自分自身の宗教性を獲得するチャンスを得られると言うんですね。
21世紀はアルゴリズムやAIの時代を回避できないし、水平化(抽象化)の進行も止められない。それは不愉快なことも多いけど、さっきも言ったように仮にAIが小説や論文を書き、アートを制作できるのであれば、中途半端に残っていた人間中心的な思い上がりが払拭されるわけで、それは別に悪くないんですよ。この破壊が徹底されることによって、はじめて「実存」や「宗教」の意味を考えることができる。実存主義はサルトルで終わったのではなく、むしろここからが本番だと言いたいですね。
――「リアルサウンド」もある意味で、20世紀型のメディアの一つです。雑誌的な企画の面白さをウェブ上でも実現しようという発想で始めましたが、読者の関心の変化はやはり感じています。我々に限らず、20世紀型のメディアに可能性はどの程度あると思いますか。
福嶋:僕もご多分に漏れず、コロナ後にレコード収集にハマっているんですが、そのうち絶対飽きるだろうと思いながら不思議と全然飽きませんね。考えてみれば、レコードの時代は本当に奇跡的で、ジャズもクラシックもロックも、レコードの時代に出てきた演奏家にはやはり次元の違う輝きがある。もちろん、今の演奏家がダメとか愚かなことを言いたいのではなく、音楽史におけるレコードのシンギュラリティ(特異さ)があるんですよ。だから、巷のレコード回帰もただのノスタルジーではなくて、技術的な優劣では測れない「特異点」に接触したいという欲望があるんじゃないですか。
しかも、ネットのサブスクが物理的なレコードへの導線になるので、いつまでも買い物が終わらない。サブスクとレコードが併存する今の音楽環境は、リスナーとしては最高です。一生遊べるほどの資源がすでにある。ここでちょっと飛躍すると、このサブスク→レコードという関係が一つのモデルになると思うんですよ。今日の話に置き換えると、21世紀のメタメディアを利用して20世紀のメディアを再発見するということですね。そういう遊びの果てに、実存へとポンとジャンプする機会がめぐってくるかもしれない。
こういう具合に『メディアが人間である』については、なかなか前例の少ないユニークな「製図」ができたと自負しています。まだ翻訳されていないアメリカのメディアやテックの研究もいろいろと紹介しているので、文献ガイドとしても有益でしょう。全体としては、20世紀に一度さよならを言いつつ、19世紀の思想家や技術者に再会し、21世紀のメディアから実存に通じる抜け道を探る――そんな本になったと思います。読者の皆さんには、肩ひじ張らずに楽しく読んでいただけると嬉しいですね。
■書籍情報
『メディアが人間である 21世紀のテクノロジーと実存』
著者:福嶋亮大
発売日:10月3日(金)
価格:3,300円(税込)
判型:ハードカバー/四六判
頁数:316頁
ISBN:978-4-909852-63-2
出版社:株式会社blueprint
blueprint book store:https://blueprintbookstore.com/items/68c0ee9886f8d43c5a87d59a
【目次】
序 │ あまりに人間的な非人間
第1回 │ メディアが人間である
第2回 │ 目的から生成へ― 脳・検索・陰謀論
第3回 │ アウラは二度消える― 「遠さ」と「近さ」をめぐる諸問題
第4回 │ メディア史の美学的展望
第5回 │ 電気の思想― マクルーハンからクリストファー・ノーランへ
第6回 │ 鏡の世紀― テクノ・ユートピアニズム再考
第7回 │ 21世紀の起源― 社会を食べるソーシャルの誕生
第8回 │ シミュレーショニズムの系譜― メディアの再人間化への道
第9回 │ ウィトゲンシュタインとAI― 多様化する言語ゲーム
第10回 │ マルクスとAI― 高密度化する労働
第11回 │ 戦争の承認、承認の戦争
第12回 │ ポストトゥルースから物語中毒へ
第13回 │ 心的なワークスペースとしての小説
第14回 │ 私を運営する私― キュレーション・推し・身体
第15回 │ 不眠社会の記号論― トランプ・エジソン・漱石
第16回 │ すべての画像は「写真的なもの」になる
第17回 │ 超多文化主義の到来― ライフスタイル・羨望・美学
第18回 │ グローバル・ヴィレッジのキルケゴール
結論 │ 21世紀の実存
あとがき