〈遠さ〉と〈近さ〉のあいだでーー福嶋亮大『メディアが人間である』刊行に寄せて

 批評家・福嶋亮大による新刊『メディアが人間である 21世紀のテクノロジーと実存』が、2025年10月3日(金)に株式会社blueprintより刊行された。かねてより福嶋亮大の著作を愛読しているライターの佐々木大樹が、同書の刊行に寄せた書評を掲載する。(編集部)

1.福嶋亮大を論じるために

 すぐれた思想家はひとつの主題に添って、あたかも導かれるかのように究道的な姿勢を貫き通す。たとえば福嶋亮大にとって、いっさいは距離の問題だ。〈遠いこと〉と〈近いこと〉の狭間で物事が生成し消滅するその都度束の間の波打ち際に彼の批評の賭け金は置かれ、エクリチュールが起動する。

 初期の代表作『復興文化論』(青土社、2013年)を思い出そう。ここでまず中心的な論述に据えられるのは柿本人麻呂だった。なぜならこの歌人は遠いものを近くへと持ってくる天才だからだ。戦乱(壬申の乱)と遷都の結果、いま・ここには存在しなくなったかつての都をいかに言葉の力によって復興させるのか。歌人の方法意識は、すでに彼方へと消滅した事物をもう一度こちら側に、手前に引き寄せる接近の身振りを問うていた。ただ現在にべったりと住みつくことへと満ち足りるのではなく、打ち捨てられた敗北の都をいかに顕現させるべきか。言い換えればまったき〈近さ〉の裡に安住するのではなく、いかにしていま・ここへ〈遠さ〉を導入するか。

 歌の力の持つ「感じること」によって一瞬生起される「古都」の近さが、ここで文学に肯定的な耀いを纏わせる。〈遠いこと〉と〈近いこと〉の関係性を複雑な回路で結び直すその特異な技法の一点に、文学の可能性は宿るのだ。一方で近さと遠さの弁証法的な止揚によって現れるwhereの主題に対して、カウンターパートとしてのwho、つまり他ならぬ「私」の一人称的な語りに力点を置けば日本文学史における空海の重要性に突き当たるだろう。人麻呂のwhereか空海のwhoか。これは福嶋において、世界文学を問うときにも変わることのない根本的な二項対立である。『復興文化論』での二項はあくまで補完的な関係性でありどちらかの優劣を問うものではなかった。しかしその後の福嶋が一貫して描き続けるのは、「私」の自明性でなく、距離の「間」にあって浮かび上がり消滅する儚い惑星の痕跡だ。

 だから新刊『メディアが人間である 21世紀のテクノロジーと実存』(blueprint、2025年)を解説するこの試みも惑星的に遂行しよう。私は、福嶋を同時期に活躍する複数の批評家とのネットワークの間に、独自性と共通性の中間に位置付けて論じたい。それはまた「福嶋亮大」を、その四文字の著者名によって刊行され続けるテクストという島々の間を経巡って生成されるフィクションとして論じることにもなるだろう。

2.〈近さ〉への禁忌

 〈遠いこと〉と〈近いこと〉の間に立ち、あるいは世界と自己の間に立ち、あくまでその両者の間で危うい平衡を保つこと。福嶋亮大の著作が文学を扱っているからといって、それを単なる「私」の礼賛(≒近さの礼賛)と看做してはならない。極端な近さのディスクールに対する批判を、ここで近年の福田和也批判と蓮實重彦批判のうちに確認してみよう。(※1)

 そもそも福田和也は、極めてねじれた〈近さ〉の思想家だということができる。『日本人の目玉』(新潮社、1998年)を例に取ってみればそれはすぐに理解できるはずだ。尾崎放哉と高浜虚子、西田幾多郎と九鬼周造、洲之内徹と青山二郎。この3組のペアは、いずれも本稿のタームに言い直せば前者が〈近さ〉を、後者が〈遠さ〉のタームを生きている。そしてここでは絶対的な〈近さ〉が寿がれていく。

 にもかかわらず、そんなものは全部フィクションなのだと福田和也はちゃぶ台をひっくり返す。続く三島由紀夫と坂口安吾を論じた章(「三島の一、安吾のいくつか」)の中ですべては「作為」であると認めるからだ。三島の人生に作為を見ることは容易かろう。しかし安吾の狂気にまで福田和也は紛い物じみた構築性を認めねば気が済まない。かくして天然・自然のものまで人は作為してしまうのだと認識することによって(※2)、『日本人の目玉』は「川端康成」と「小林秀雄」という究極の(物自体と一体化する)眼、「見る者との近さにおいて貫く一撃」としての批評をフィクショナルに創造する。

 もとより福田和也にとって信じられる堅固な手触りなどありはしなかった。すべてが遠のいていた。その遠さの中で、遠さによって人工的に近さを捏造する乾坤一擲の試みが彼の旺盛な批評精神を支えていた。しかし福嶋は、福田晩年の著作『保守とは横町の蕎麦屋を守ることである』(河出書房新社、2023年)にあらわれる〈近さ〉の無防備な発露を批判する(※3)。ここでの福田が、作為性を緩やかに忘れたまったき〈近さ〉の内部に自足しているからだ。

 一方、マーティン・ジェイに倣って日本の「うつむく眼」とも呼ぶべき『表層批評宣言』(筑摩書房 1979年)の蓮實重彦もまた〈近さ〉の思想家と呼ぶことができるだろう。福嶋は時として蓮實を〈遠さ〉との狭間において理解しようともするが(※4)、本年に入ってからの批判(「戦後思想の盲点 蓮實重彦氏に答える」、『群像』、2025年6月号)は蓮實の〈近さ〉を撃つものだと言える。批判の骨子自体は、ハン・ガンのテクストをめぐって蓮實の政治性の希薄さを問う、いささか四方田犬彦を思わせてそれ自体クリシェとも言える指摘だが、福嶋における統一的な主題を確認する上で示唆がないわけではない。つまり、テクストへの極端な眼差しの近さがその臨界点を超えた時、それがそのまま反転して絶対的な遠さと見分けがつかないさまを福嶋は指摘しているのだ。文中の一節をやや文脈を外して引用し直してみればすなわち、「『明視』がそのまま『盲目』を意味することは何ら珍しいことではない」。福嶋の文章からは、〈近さ〉への批判が時として〈遠さ〉への批判のようにも見える距離感覚の失調が特徴的に見出せるが、その理由はこの蓮實批判によって明らかだろう。絶対的な〈近さ〉はそのまま絶対的な〈遠さ〉と見分け難くなる。

※1 逆に〈遠さ〉を批判した試みとして2018年の以下の論考をあげることができる。「文壇の末期的状況を批判する」( https://icakyoto.art/realkyoto/reviews/85247/)ここで福嶋はMe Too運動を他者の物語が自らの人生を包摂してしまっている状態、つまり本来的に〈遠い〉ものが〈近い〉ものを覆ってしまっている状態とみなしている。また北条裕子『美しい顔』をめぐって、作者が東北の被災地に行かないという距離の〈遠さ〉にあらわれる甘えと幼稚な「私」語りの奇妙な〈近さ〉の背反的かつ確信犯的な相補関係を見てとっている。

※2 この試みは、ルソー『新エロイーズ』の裡に鋭く自然を作為し「訂正」してゆく営みを見出した『訂正可能性の哲学』(genron 、2023年)の東浩紀まで引き継がれるだろう。

※3 「ただ、そこには福田氏の限界もはっきり現れている。氏は本居宣長に倣って、政治的な正しさ(からごころ)よりも、弱さを弱さとして認める「やまとだましい」の側に立つ。しかし、このようなホンネへの居直りが、すでに文学でも政治でも行き詰まっているのは明らかだろう。実際『弱さ』の意識が逆噴射して、むやみに攻撃的になったりルサンチマンをたれ流していたりする例は珍しくない。それは『放蕩』どころか、たんに腰抜けで『ぶざま』なだけである。」福嶋亮大、「風景論としての批評」、『ユリイカ 総特集・福田和也』、青土社、2025年1月臨時増刊号所収、p. 302。

※4 福嶋亮大、『百年の批評 近代をいかに相続するか』、青土社、2019年、pp. 245-246。

3.〈遠さ〉を保ったままなお近づくこと

 重要なのは、この〈近さ〉と〈遠さ〉の間に立ち続けることだ。「間」の思想にあくまで拘る福嶋は昨今ふたたびブームになりつつある民藝をも批判していた。「人間の生活のレベルだけに終始しかね」ない民藝のあり方はあまりにも私たちに近すぎるからだ。その代わりとして彼は、宮永愛子の仕事に着目する(『思考の庭のつくりかた はじめての人文学ガイド』、星海社新書、2022年)。なぜなら、そこには「間」があるから。

 この「間」を別の表現に直すとき、『書物というウイルス』(blueprint、2022年)の福嶋は「いかに統御を取り戻すか」というテーゼに言い換える。「人間の『物象化』がコントロールを超えた規模と速度で進行している」状況にいかにコミュニケーションの回路を導入するか。しかしそう問うや間髪入れずに福嶋は確認する。さらに重要なのは「漂流」をいかに取り戻すかだと。なぜなら同書での彼自身の言葉を用いるなら、「迷子にならなければ世界には出会えない」のだから。自己を自己の殻から打ち破り、遠くどこまでも広い世界のなかに浸ってゆくほとんど脱我的な道程に正確な空間把握など望むすべはない。唯一無二の「私」の自明性などもとよりあるはずもなく、彼のオブセッションは行方不明、消滅、失踪へと向かうだろう。

 福嶋が好んで論述していた対象を思い起こそう。二者関係の最終的な死と消滅に拘る坂口安吾、大田垣蓮月の「根深い自己消去願望」(その結果繰り返される引越しと行方不明)、丸谷才一が根源的に宿す「文明からの遁走」としての失踪。あるいは神の世界(遠さ)と翁たちの人間界(あまりに卑近な近さ)の間で暮らそうとし、最終的に絶対的な遠さへと弾き飛ばされるかぐや姫、そしてその伝説を見事にアニメーション映画化した高畑勲。

 ここで福嶋がその山崎正和論(「日本を転移する眼」、『百年の批評』青土社、2019年所収)のなかで引用していた山崎の言葉をもう一度読み直してみたい。

アメリカ人はたしかにふたつにひきさかれてゐるが、ひきさかれてゐるということはまぎれもなくひとつの文化のありかたなのである。

 この「ひきさかれ」た空間の迷宮的ネットワークのなかで生じるエクスタシー。その繰り返しにだけ、福嶋はあらゆる事象の可能性を見定めているのではないだろうか。それはまた〈遠いこと〉と〈近いこと〉が絶えず互いの領分をめぐって闘争し、どちらの最終的勝利とも言い難い未明の状態に耐え続けることである。こう言ってよければ、その状態はつまり、遠いものに対して遠さを保ったままなお近づくことは可能かというほとんど不可能な問いとして定式化できるはずだ。それは感染症の問題を問うときにすら変わらない。『感染症としての文学と哲学』(光文社新書、2022年)では、「種痘」の問題をめぐってカントとヴォルテールの立場が対比されるが、それは言い換えれば前者が〈遠い〉ものと適切な距離をどこまでも設置しようとするのに対し、後者が遠くにあったはずのウイルスをわずかばかりの毒と共に自己の内部へと取り入れることを意味する。ここで〈遠さ〉はあくまでその遠さを失うことなく〈近さ〉の中へと潜ってゆく。そう、福嶋はワクチンについて思考していたのだ。「感染を恐怖しつつ、それがもたらす未知の変身に憧れる。衛星を望みつつ、その不自由さに苛立つ—疫病は人類の心をこのような分裂へと導きます」。

 福嶋は人間同士の間ではあらかじめ失敗が胚胎されたこのプログラムの完璧な遂行、失敗の成功の極限例として村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』を評価している(『らせん状想像力 平成デモクラシー文学論』)。

 そもそも平成文学の特徴は、他者と自己との間での溶解現象にこそあった。たとえば吉本ばななの作品には「遠いがゆえに近いという逆説的なコミュニケーションの時空」を認めることができるといった具合に(『書物というウイルス』)。この〈遠さ〉と〈近さ〉の無媒介的な距離零度はしかし平成後期の凶悪犯罪における動機の奇妙な二極分解のなかで再び実相を表す。一方では誰にでも理解することができる卑近な日常トラブルに端を発したかと思うと、まったく共感することすら不可能な「他者」の動機がそこに奇妙な形で撞着する(※5)。

 平成の文学と犯罪は、その中途で絶対的な〈遠さ〉とあまりにも卑小な〈近さ〉に分岐してしまった。これに対して『ねじまき鳥クロニクル』の試みは歴史と陰謀という遠いものに、その遠さを保ったままにじり寄って行く七顛八倒の試みである。この狭間に位置し続けること、〈遠さ〉でも〈近さ〉でもなく、同時に〈遠さ〉であり〈近さ〉である奇妙な距離感覚の「波打ち際」(松浦寿輝)に福嶋は「小説の本質的な問題」を見定めようと試みるのだ。

※5 秋葉原事件の加藤智大について考えてみれば、それはこう整理することができるだろう。
「このように、加藤智大には客観的な分析によって一般化され解消されてゆく「私」と、あまりにも特殊すぎてほとんど誰にも共有できない衝動を抱え込んだ「私」が同居している。加藤の「私」はときに気体のように脱中心化し、ときに石のように凝固するのだ。」福嶋亮大、『らせん状想像力 平成デモクラシー文学論』、講談社、2020年、p. 193。

4.波打ち際に生きる

 2025年は、こうした中間領域にこだわるいわば波打ち際派の著作がいっせいに揃った感がある。宇野常寛、東畑開人、與那覇潤、そして福嶋亮大の『メディアが人間である』がそれに該当するだろう。

 たとえば宇野は『庭の話』(講談社)で、「人工物と自然物の中間」にある「庭」に、すべてが人為的に作成されたプラットフォームを突き破る古くて新しい可能性を見出していた。不完全であると同時にある程度はコントロールすることもできる「間」の空間として「庭」は機能していると宇野は説く。

 一方、東畑開人はこれまで『心はどこへ消えた』(文藝春秋、2021年)や『なんでも見つかる夜に、こころだけが見つからない』(新潮社、2022年)といったタイトルが示唆的だったように、現代日本における心の軽視に対して豊かな物語的装飾を伴う筆致で静かに抗ってきた。その試みは大文字の社会に対するささやかな異議申し立てであり、目に見えない日々生成変化してゆく複雑な心理への肯定に満ち満ちている。東畑の言葉は端的に言って、複雑さへの信頼であり、それはそのまま素朴かつ美しい文学の力への豊穣な回路をもう一度繋ぎなおす。彼の新作『カウンセリングとは何か 変化するということ』(講談社現代新書)において心の特性ははっきりと「私」のままならぬ身体性とどうしようもなくアプシュルドな世界の中間に位置付けられていた(※6)。

 あるいは與那覇潤の場合はどうだろう。與那覇の言説は或る意味で常に分裂している。歴史学者に対しては舌鋒鋭く「歴史なんかいらない!」と主張するその一方で、『平成史 昨日の世界のすべて』(文藝春秋、2021年)に代表されるような優れた歴史不在への批判を残しているからだ。この逆説は、『知性は死なない 平成の鬱をこえて』(文藝春秋、2018年)で提示された〈言語〉と〈身体〉という二項対立に当て嵌めて考え直すとき、いくらかすっきりするように思われる。與那覇にとって、歴史がある時代(それは三島事件をもって象徴的に終焉した)はいわば〈言語〉が優位な社会だった。過去とのつながりを論理的に思考する三島由紀夫がここで〈言語〉の代表だろう。対して歴史なき時代、つまり平成以後は〈身体〉の時代とされる。SEALDs運動から令和のコロナ騒ぎに至るまで、彼の状況観察は一貫して〈身体〉批判と絡めて展開してゆく。與那覇にとって、歴史はこの〈言語〉と〈身体〉の中間で生成されるもののように思われる。それは別の表現をとるなら過去と現在の中間と表現しても良いはずだ。歴史学者は〈言語〉が過剰な人々であり、平成以後に生きる人々は〈身体〉が過剰な人々だと與那覇は見ているのではないか。前者は過去の彼方へと姿を消したまま現在に何一つ活かすことをしないし、後者はいま・ここの瞬間にだけ目を奪われて何度でも同じ出来事を神話のように反復する(だから歴史学者へのカウンターパンチは正確には「過去なんかいらない!」とした方が正しいのではないか)。どちらにも中間項は不在であり、それはそのまま歴史の不在にすり替わってゆく(※7)。このときいわば「間」の人として加藤典洋にスポットを当てようと試みた著作がその新刊『江藤淳と加藤典洋 戦後史を歩きなおす』(文藝春秋)であるように思われた。

 同書において持つ江藤淳の大きなポテンシャルは、〈身体〉的批評家としてのそれだ。彼の文学的あるいは実存的主題としての「沈黙」に着目する與那覇は、いかにして言葉なしで、ということはつまり歴史なしで他者と繋がりうるかを問うた江藤に共感を寄せる。與那覇自身の美しい定義を引いておけば、「批評とは異なる形で、言葉にすら頼らずに、すべてが壊れて見える世界を他者とともに持ちこたえてゆく」方法の模索が江藤という「批評家の最後の闘争」だった。

 もう一人の主人公加藤典洋は、〈言語〉と〈身体〉の狭間に留まって思考を進めてゆく。加藤の代表作に『太宰と井伏』(講談社、2007年)という太宰治と井伏鱒二を扱った著作があるが、前者や三島由紀夫は論理的な思考のスパイラルの果てに、つまり〈言語〉の果てに矛盾を抱えることへの否を突きつけて自死を選ぶ。一方の井伏はそうしたねじれを生きることのない〈身体〉的ないま・ここを常に間断なく生きる。與那覇にとって加藤の「可能性の中心」はこの中間に存していた(※8)。

 だから中間の加藤は、平成という〈身体〉の時代で生きるとき、最終的にそのカウンターパートとして〈言語〉的な知性を選択してゆく。言い換えれば歴史を再記述する書き手へと変化する。與那覇の言葉を借りれば、「宣長主義が支配するこの日本という場所では、ビオス[〈言語〉]の立場でゾーエー[〈身体〉]に向き合う以上に、ゾーエーがビオスを知り、それと対峙して行かなくてはならないのではないか」。

 平成後期に稀代の思想家が選んだ「ビオスを知」ることを見るまなざしは、そのまま『知性は死なない』以後の與那覇潤という歴史家をこれ以上なく鮮やかに浮かび上がらせてはいないだろうか。彼の方法論は、〈近さ〉をそれ自体として肯定すること(※9)と〈遠さ〉の適切な復権という二つのプログラムの同時遂行にあったのだ。

※6 「そのうえで、「心」とは自己と世界の中間にあり、その二つのあいだを調整する装置です。たとえば体がひどく疲れている(自己)。会社では山積みの仕事がある(世界)。心はその中間で「頑張ろう」と鞭を入れたり、「ほどほどでいいや」と緩めたりして、生活や人生をやりくりするわけです。」東畑開人、『カウンセリングとは何か』、講談社現代新書、2025年、p. 83。

※7 この視点は歴史学者時代から一貫したものだろう。たとえばその稀有な面白さによって再読されるべき対談集『史論の復権』(新潮新書、2013年)では、「私はいまの日本社会が抱える問題の多くは『中間的なもの』の衰退ということに尽きていると思います」(pp. 4-5)と「まえがき」のなかでしるしていた。「私にはそれは、人々の歴史に対する感覚の衰弱と、表裏一体のもののように見えたのです」(p. 5)。同書のねらいを與那覇は「つねに完成への途上、なにかの『中間』にある場所としての、歴史の姿を示すこと」だとまとめている(p. 6)。

※8 加藤にとって「むしろ自他の境界がやぶけ、あるいは破線となった状態で、あるべき姿へと自身を引き上げる理念と、ただ在るだけの状態へと下降する生命の重力との「均衡」として、個人の生はとらえられる。」與那覇潤、『江藤淳と加藤典洋 戦後史を歩きなおす』、文藝春秋、2025年、p. 248。

※9 歴史なき時代に人が生き延びてゆくための倫理として與那覇は「代理人の倫理」なるものを提唱していた。くわしくは以下参照:與那覇潤、『歴史がおわるまえに』、亜紀書房、2019年、pp. 375-377。同、『平成史 昨日の世界のすべて』、文藝春秋、2021年、pp. 497-503。

5. 『メディアが人間である』を論じるために

 ところで、與那覇潤は「歴史」の対義語に「検索」という一語を与えていた(※10)。「検索」に21世紀の特徴を見出す視点は『メディアが人間である』の福嶋亮大もまた共有するところだ(同書第2章「目的から生成へ」)。

 ここで本稿は遅ればせながら同書の解説へと移りたい。

 20世紀の文化的特徴は〈遠さ〉の裡に理解できると福嶋は言う。仮に蓮實重彦に倣って「映画の世紀」とも呼びうるこの時期のメディアは「人間の内的な限界を越えることができる」。つまり「私」の近しい世界を越える〈遠さ〉の感覚が一挙に目の前へと開かれていた。それに反して21世紀のメディアはすべてが〈近さ〉に回収されてゆく。「非人間的な機械性」の20世紀から「再人間化」されたメディアが世間を賑わす21世紀へ。この〈遠さ〉の(與那覇潤のタームを使えば「歴史」の)失調過程で「検索」というリサーチの力だけが重要になっていった。先に言及した〈身体〉の時代性といま・ここに最適化した「検索」は驚くほど相性が良いのだ。

 『メディアが人間である』の〈近さ〉への批判は、先に見た福田・蓮實批判以上に強烈である。たとえば以下のようなフレーズを抜き書きしよう。

 アウラとは、空間的・時間的な「遠さ」を含んだ「不可思議な織物」である。だが、この神秘的な「遠さ」は、複製技術の時代には「近さ」への欲望に取って代わられる。

 大量の複製物に取り囲まれた大衆社会は「近さ」へのオブセッションを内包しており21世紀のメディア環境はそれをいっそう顕著にした。人間に近い器官、つまり手を乗っ取ったスマホは文字通り「手放せない」装置となった。このような近さの勝利が、21世紀メディアの革新にある。

 現代の聴取のテクノロジーには、遠さを遠ざけ、近さに近づこうとする21世紀メディアの傾向がはっきりと示されている。

 私は比較的長い紙幅を割いて福嶋の思考パターンの抽出を試みてきた。この〈近さ〉への反措定としてどのような命題を提出すべきかは今や明らかだろう。20世紀の芸術には「部屋という『ま』(空間)のなかで『形』らしきものを獲得する」側面があった。それは〈近さ〉の一元的な支配によっては満たされえない空間だった。だから「『近さ』の勝利のなかで、いかにして『遠さ』の価値を再発明するかーーそれは21世紀のテクノロジー批評の大きなテーマとなるだろう」。

 こうして福嶋の問いは、同じ時代を生きる他の批評家たちとその核心部で共鳴する。宇野が「庭」を、東畑が「心」を、與那覇が「歴史」を問うたように、福嶋亮大は中間を思考する。その場所を本書はついに「実存」と名づける。

 「実存」という単語に含まれるニュアンスから間違っても「私」の〈近さ〉を連想してはならない。それがどこまでも〈遠さ〉との接触によって生み出されるものであることはもはや言うまでもないだろう。

 われわれはここで、実存と〈私〉を区別しよう。キルケゴール的実存は、〈私〉の自重をどんどん増してゆく自己中心的な生き方とは異なる。現に、キルケゴールは仮名の著作のなかで、他者を誘惑し、他者に誘惑される「美的」な生き方を詳細に再現していた。インコグニト(隠れ蓑)のアカウントを駆使するキルケゴールは、どっしりした恒星ではなく、他なるものに心を奪われ、さまよい続ける惑星に近い。自己を重くするのではなく、複雑に屈曲させることーーそれが実存にとって不可欠な「前史」なのだ。

 ここでも福嶋は「私」の重みを執拗に問い詰めるwho are you?ではなくwhere are you?の問いを生きている。やはりいっさいは、距離の問題なのだ。この問いは「人間をアイデンティティの承認のゲームにではなく、内的な迷宮化に導くだろう。このたった一言の問いだけで、われわれは安らかな気持ちを失う。なぜなら、人間は自らが『どこ』にいるのかを確証する術を持たないからである」。

 行方不明、消滅、失踪に続き今度は「内的な迷宮化」! なんと驚くほどの一貫性!!

 本稿の読者は、こうして同書の鋭く理知的な論旨がそもそも福嶋固有の問いから導きだされていたことを理解されるだろう。『メディアが人間である』はこれからも彼の思想の森に迷った読者たちが幾度も立ち返り、読み継いでいくことになるはずだ。古くて新しい文芸批評の方法が、そのまま最良の文明批評であることを明かしてくれたのだから。

 福嶋はこの新たな傑作のなかで夏目漱石の小説、とりわけ『草枕』に言及しながら「実存」を担保するものとしての「恍惚」状態に触れている。「恍惚」とは、「覚醒」と「熟睡」の中間領域を指す(※11)。すべてが自律した覚醒の相でも、まったき眠りの彼方で昏睡する深さの相でもないまどろみの中空。塚本昌則のしるした20世紀フランス文学へのすぐれた研究書のタイトルを引いてそれを「目覚めたまま見る夢」と呼び変えても構わないだろう。本書が束の間垣間見させてくれるのは、そんなどこまでも見果てぬ美しい夢だ。

※10 以下の文献や動画を参照されたし。與那覇潤、『危機のいま古典をよむ』、而立書房、2023年、pp. 9-19。與那覇潤×磯野真穂「歴史なしで生きるヒント ── リハビリする歴史Vo.1」(https://www.youtube.com/watch?v=epBxyD_1E_0&t=3125s

※11 「ここで『恍惚』と呼ばれるのは、熟睡でもなければ覚醒でもない、その中間を糸のようにからめあわせた境地である」。福嶋亮大、『メディアが人間である 21世紀のテクノロジーと実存』、blueprint、2025年、p. 239。

■書籍情報
『メディアが人間である 21世紀のテクノロジーと実存』
著者:福嶋亮大
発売日:10月3日(金)
価格:3,300円(税込)
判型:ハードカバー/四六判
頁数:316頁
ISBN:978-4-909852-63-2
出版社:株式会社blueprint
blueprint book store:https://blueprintbookstore.com/items/68c0ee9886f8d43c5a87d59a

【目次】
序 │ あまりに人間的な非人間
第1回 │ メディアが人間である
第2回 │ 目的から生成へ― 脳・検索・陰謀論
第3回 │ アウラは二度消える― 「遠さ」と「近さ」をめぐる諸問題
第4回 │ メディア史の美学的展望
第5回 │ 電気の思想― マクルーハンからクリストファー・ノーランへ
第6回 │ 鏡の世紀― テクノ・ユートピアニズム再考
第7回 │ 21世紀の起源― 社会を食べるソーシャルの誕生
第8回 │ シミュレーショニズムの系譜― メディアの再人間化への道
第9回 │ ウィトゲンシュタインとAI― 多様化する言語ゲーム
第10回 │ マルクスとAI― 高密度化する労働
第11回 │ 戦争の承認、承認の戦争
第12回 │ ポストトゥルースから物語中毒へ
第13回 │ 心的なワークスペースとしての小説
第14回 │ 私を運営する私― キュレーション・推し・身体
第15回 │ 不眠社会の記号論― トランプ・エジソン・漱石
第16回 │ すべての画像は「写真的なもの」になる
第17回 │ 超多文化主義の到来― ライフスタイル・羨望・美学
第18回 │ グローバル・ヴィレッジのキルケゴール
結論 │ 21世紀の実存
あとがき

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