映画『ふれる。』スピンオフ小説で解像度が増すキャラクターの“内面”と伝えたかった“メッセージ”
だったら人は永遠にわかり合えないのか? 『ふれる。』という映画は、そうしたコミュニケーションの限界を描いた作品なのか? 逆だ。外見だけでは人の本性は分からないし、理解し合っているようでも本心までは感じ取れない。そうした前提をしっかりと受け止めた上で、分かり合うために考えて行動する大切さを描いている映画なのだ。
象徴的なのが樹里という存在だ。映画では、優しくてだからこそ流されやすいところがある奈南という友人を心配して世話を焼く、姉御肌の人物として描かれる。樹里の過去や思いに迫った「第四話 【高慢と偏見と宅建と樹里】」では、いきなり「――人の気持ちなんて、わからない」という樹里のモットーが繰り出され、彼女が言葉や見た目で誰かを理解するなんてできないと考えていることが分かる。
奈南と小学校で出会った後、愛らしい外見と意外な運動神経の良さで、人気者になっていく奈南を疎んじていた樹里だったが、ある日、奈南が自分の被っていたバケットハットに強い興味を示したことで、彼女のファッションへの関心を知り、「思っているほど単純でもないのかも」と考え直した。東京で諒と出会った時も、「体育会系で兄貴肌の男」と感じていたら、父親のケガで漁師を継げなくなったという境遇があり、不動産業で身を立てようとする明確なビジョンを持っていることを知って見直した。映画で諒と樹里の関係を意外と思った人も、スピンオフ小説を読めば理由が分かるはずだ。
秋、諒、優太の関係を揺さぶり、「ふれる」の暴走にも繋がる奈南という女子に対する印象も、スピンオフ小説における彼女の過去や言動に踏み込んだ描写なり、映画全体から漂う相手を理解しようとする気持ちの大切さなりを受けて、少しは変わってくるかもしれない。共感まではいかなくても、理解して応援してあげたいと思えてくるかもしれない。
成長しても、「ふれる」の力がなければ思いを伝えられないような秋が、どのようにしてコミュニケーション必須のバーテンダーという仕事に就けたのかも不思議だった。スピンオフ小説「第一話 【秋の求職日記】」にも、面接にいって受け答えに詰まり、やはり無理だったと諦めかける描写があって、やっぱりと思えるが、そこから逆転したからこそ映画での境遇がある。どのようにしたかをスピンオフ小説を読んで確かめよう。
そして、登場人物たちへの理解を深め、作品が伝えようとしていたこともより強く感じ取ろう。その後で映画館に足を運べば、『ふれる。』という作品の神髄に触れることができるはずだ。