映画『ふれる。』スピンオフ小説で解像度が増すキャラクターの“内面”と伝えたかった“メッセージ”

 『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』『心が叫びたがってるんだ。』『空の青さを知る人よ』を監督した長井龍雪と脚本の岡田麿里、キャラクターデザインの田中将賀が組んだオリジナルアニメ映画『ふれる。』が10月4日から公開中だ。

 関連書籍では額賀澪によるノベライズ『小説 ふれる。』(角川文庫)が出ていて、読めば映画のストーリーを楽しめるが、10月10日に登場の岬鷺宮によるスピンオフ小説『ふれる。 Spin-off Wanna t(ouch) you 』(電撃文庫)では、登場人物たちの生い立ちや感情に加えて、謎の存在「ふれる」の思いにも触れることができて、映画が伝えたかったことにグッと近づける。

 子供だったころ、封印されていた岩穴の中で小野田秋が見つけた謎の存在「ふれる」に触れたことで、心が通じ合うようになって仲良くなった秋と祖父江諒、井ノ原優太の3人。成長して、ファッションに興味がある優太が東京の服飾専門学校に進学し、諒も東京の不動産屋に就職が決まって、秋も入れた3人で東京に出て同じ家でいっしょに暮らし始めた。

 心が通じ合うとはどういうことか? 映画の予告編では、秋、諒、優太の3人が夕食に何を食べるかを決めかねていた時に、手を重ねるとそれぞれが思っていることがお互いの間を行き来して、「それだ」となるシーンが登場する。岬鷺宮のスピンオフ小説でも、居酒屋に集まった3人が、騒がしくて会話もままならない状況で、指先を触れあって心で会話するシーンが描かれる。超能力の接触テレバスに似た力を3人は持っていた。

 伝わるのは、心の中で言葉にしたことだけではない。スピンオフ小説では、アルバイト先を探している秋が、コミュニケーションが苦手な自分に合う職場はあるだろうかと悩んでいた気持ちも、諒と優太にしっかりと伝わっていた。「ふれる」は、口に出せない人の思いの奥底まで伝える力を持っている。それによって3人は、お互いが決して悪意を抱かない奴らだと認識し、いっしょに暮らすくらい仲良くなっているのだと分かる。

 こうした状況から、『ふれる。』という作品は、人と人との心がつながりあうようになれば、平穏で幸せな世界が訪れることを描いたものだと感じた人も多そうだ。ところが、映画では物語が進むに連れて、「ふれる」が実現した言葉を使わないコミュニケーションに問題があることが分かって来て、何が正しいのかに迷うようになる。

 ノベライズの冒頭、「プロローグ 【T(ouch) you】」というエピソードの中で、「ふれる」がどうして人の心と心をつなげようとしたかが描かれる。「自分の生きる人の間が、穏やかであって欲しいと。身体に流れ込む彼らの感情が、平和で心地よいものであって欲しいと」。人と人とのコミュニケーションの間に生まれた細い糸が、成長するようにして誕生した「ふれる」が望んだのは心地よい居場所。だから、「言葉を介することなく、直接心と心で」つながり合えるようにした際に、「そこに少しだけ手心を加えて」いた。

 この「手心」がどのようなものかが分かった時、人の心というものは実に複雑で、コミュニケーションというものが一筋縄ではいかないことに気づかされる。だからこそ、人と人とが思いのたけをぶつけ合い、想像し合うことに意味があるのだと感じさせられる。

 映画では、ある事情から、浅川奈南と鴨沢樹里という2人の女子が、秋たちの暮らす家に転がり込んでくる。そこで樹里は、3人がどこまでも信頼し合っている状況を不思議に思う。スピンオフ小説の「第四話 【高慢と偏見と宅建と樹里】」で樹里は、3人の分かり合っている感じを、「仲良しであるのをお互い確認して、安心しているんだろうか。そういうの、ほんとにキモいと思うんだけどな」と嫌悪する。

 樹里の感覚は、「ふれる」が加えた手心というものによって、すっかり信じ合っていた3人には分からないことだったかもしれない。もしも奈南や樹里と出会わず、秋たち3人だけでずっと暮らし続けていたら、一生楽しく幸せに過ごせたかもしれない。けれども、人は閉じこもったままでは生きていけない。誰かを憎んだり恐れたりしないで生き続けることも困難だ。映画の冒頭で、「ふれる」が島の岩穴に封印されていた理由もそこにある。

 スピンオフ小説の「第六話 【ふれていたい】」で、「ふれる」が「最初は誰もが喜んでくれるのに。いつの間にか不和が生まれて、それはとんでもなく大きく膨らんで。そして最後にはいつも、いらないと言われてしまう」と感じているらしいことが綴られる。「ふれる」自体に感情がないのだとしたら、それは人が理想とするコミュニケーションのあり方で、同時に現実では絶対にあり得ないものだということになる。

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