円堂都司昭 × 小川公代 対談 オペラ座の怪人、大江健三郎、メアリー・シェリー……重なる関心領域とそれぞれの文学観

 国内外の文学、映画、演劇などジャンル横断的に批評を展開する、円堂都司昭氏(文芸・音楽評論家)と小川公代氏(英文学者)が各々の最新作刊行を機に対談をした。

 円堂氏が刊行したのは『物語考 異様な者とのキス』(作品社)。文学作品や映画、舞台などの「異様な者と出会う物語」を「キス」という観点から論じている。物語の構造、心理的な意味、社会との関係などから多角的に捉えた論考となっている。

 小川氏の最新作は『翔ぶ女たち』(講談社)。「ケア」をテーマに研究を続けた著者が、明治から昭和にかけて活躍した小説家・野上弥生子の生涯と作品を考察した。さらに松田青子、辻村深月などの現代作家などを併せて論じることで、女性たちの表現を斬新に読み解いている。

 そんな二人の関心領域は多くの部分で重なっているとのこと。オペラ座の怪人、大江健三郎、メアリー・シェリー、野上弥生子など、古今東西の作家と芸術作品について縦横無尽に語り合った。(篠原諄也)

文学に描かれる生命倫理

小川公代氏

小川:円堂さんと私は関心がすごく重なっていると思いました。書き方、アプローチの仕方、考え方までそっくりで。私は生命倫理に関心があるんですが、今回『物語考 異様な者とのキス』を読ませていただいて思ったのは、円堂さんはとてつもなく壮大な生命倫理感をお持ちだということです。どれもスケールが大きいですよね。レムの『ソラリス』の議論がそうですし、SFの捉え方も自由な解釈で面白い。たとえば、昨年末に円堂さんが刊行された『ポスト・ディストピア論』では大江健三郎の『治療塔』の議論が読み応えありましたが、話が『三体』にまで及んだことには驚きました。

 生命倫理というと、まず、生む・生まない問題があります。そして生んだ時には、子どもに障害がある可能性がある。その偶発性によって引き受けなければならない運命があるわけです。そこで私が今日話したいと思う作品の一つに『オペラ座の怪人』があります。円堂さんの読み解きを手がかりにすると、大江健三郎作品と全く関係がなさそうに見える『オペラ座の怪人』ですが、すごく近接性を感じました。

 私は『オペラ座の怪人』のミュージカル版をロンドンで何度も観ていて大好きですが、実は続編『ラヴ・ネヴァー・ダイズ』は観たことがありませんでした。そこまでいくと、大江健三郎とより通ずる話なのかもしれません。『オペラ座の怪人』のクライマックスは、クリスティーヌとファントム(オペラ座の怪人)・エリックとのキスシーンだと思っています。長年クリスティーヌにこっそり音楽を教えてくれたファントムに対して複雑な感情を持っています。クリスティーヌが彼に与えるキスは、ある意味で乗り越えなくてはならないものだった。

 というのは「異様な者」に触れることでさえ難しいことなのに、異性愛者としてのキスをする。クリスティーヌは何度も「私がファントムに抱いている愛は何なのか」と自問自答します。それはうまく言葉にできないけれど愛なんだ、ということを証明するためにキスがある。そこで観客は「どうして最終的にクリスティーヌはラウルと結婚するんだろう」と思う。これは家父長的・異性愛至上主義的な文化に吸収されてしまったのだと捉えられるでしょう。『オペラ座の怪人』はエンターテインメントとして成立させるために、異性愛者同士の結婚として終わらせた。健常者同士の結婚が健全な子供を生んだというストーリーになるわけです。

 しかし、円堂さんがご指摘されているように、続編では、実は生まれた子供のお父さんはファントムだという新たな解釈がある。もしお父さんがファントムだったなら、生まれつき障害を持った子供となったかもしれません。そこが大江健三郎に繋がると思うんです。特に女性にとっては妊娠するかどうかという問題は、障害児を産んだときどうするかという問題は、エンハンスメント(人間の心身の向上・強化のための介入)するかしないかという現実的な選択と直結している。大江が『治療塔』と『治療塔惑星』の二部作で訴えていることの根幹にあるのは、エンハンスメントを肯定するしかないという世界だった。

円堂都司昭氏

円堂:私も小川さんの著作を読んで関心領域や手法の近さを感じていました。ただ、自分の著書を壮大な生命倫理だという風にはとらえていませんでした。むしろ、出発点では私的なことを考えていたんです。以前、藤田直哉さんとの対談でも話したんですけど、執筆時期に母親が介護施設に入っていました。ある時、施設から「お母さんが股から出血をした」と連絡があり「婦人科系の病院に受診させてください」と言われたんです。それで泌尿器科と産婦人科の病院に連れて行ったのですが、母は自力では歩けないような状態。産婦人科で診察台の上で「姿勢が保てないから体を支えてください」と言われました。この歳になって、初めて産婦人科に入って、その診察台の上に母がいる光景を間近に見たわけです。そこで自分が生まれた時はどうだったのだろうと考えることになりました。

 実は母から私を生む1年前に、1人中絶しているという話を聞いていました。当時、薬害問題もあったし、薬もいろいろ飲んでいたので「掻爬」をしたと言っていました。ただ薬害について考えてみると、薬を飲んでいて妊娠してまずいから中絶したという翌年に、薬をやめたからと生むだろうかという気がしました。中学・高校の頃に何か変だなと気づいたけれど、それで親に問いただすということはしませんでした。ただ父親はそんなに子供を好きな人でもなかったし、経済的に裕福でもありませんでした。もし仮に自分の前に1人生まれていたら、私は生まれていないだろう、避妊されていただろう、と思っていたんです。

 それは、『物語考 異様な者とのキス』で『オペラ座の怪人』や『ノートルダムの鐘』のように異様な姿で生まれ、身内に疎まれる物語について論じた動機になった気がします。それは『ポスト・ディストピア論』で反出生主義に言及したことにもつながっています。私的な動機でとり組んでいったら、結果的に『ソラリス』や『治療塔』のような宇宙的な意志にも考えがおよんだという感じです。

小川:そういう背景があったのですね。大江健三郎も生命の誕生に対する不安がありました。『空の怪物アグイー』などの作品では、特に美醜の問題が取り扱われている。生まれた子供がかわいくて健康な赤ん坊だという一般通念に裏切られること、完全体として生まれないことに対する不安があるんです。

 それはメアリ・シェリーと通ずるところでもあります。彼女は『フランケンシュタイン』(1818年)を完成させるまでに出産で2人も子供を失っています。1人目と3人目がすぐ亡くなってしまい、2人目に生まれたウィリアムは3歳まで生きるんですが、結局1821年に亡くなってしまう。だからどうしても子供は自分が思ったようにすくすく育たないという不安がある。そうした妊娠・出産に対する不安が人を突き動かして何かを書かせる。クリエイティビティの源泉になる。そういう意味では、メアリ・シェリーと大江健三郎はすごく似ていると思います。

キスが象徴しているものを論じる

円堂都司昭『物語考 異様な者とのキス』(作品社)

円堂:実は「『フランケンシュタイン』のキス」という論考を、同人誌「ウィッチンケア」で書いていたんですよね。今回の『物語考』には、それを組み込むのをなぜか忘れてしまっていて、しくじったなと思いました。

小川:そうだったんですか。『フランケンシュタイン』の場合は、夢の中でキスをしたら相手が死体になるという強烈なプロセスが描かれています。人造人間を生み出したヴィクター・フランケンシュタインこそがメアリ・シェリー自身であると考えられるとしたら、彼女は触れるものすべてが死んでしまうということに繋がってくる。自分の子供以外にも、自分が生まれたことによって母親メアリ・ウルストンクラフトを産褥熱で亡くしている。さらに自分がパーシー・シェリーと駆け落ちしたことによって、シェリーの妻であったハリエットが自殺してしまうわけです。

円堂:小説の中だと、ヴィクターが夢の中でエリザベスを抱きしめてキスすると死んだ母親にすり替わってしまう。ヴィクターは母親を猩紅熱で亡くしていました。モンスターを創造する時に、死んだ母親の代わりのようなイメージ付けもありました。夢の中でキスした相手は死体になってしまう。夢の後、実際にエリザベスは死ぬことになります。

 つまり、エリザベスが死ぬ予感として夢が働いているけれども、小説全体を通して考えてみれば、ヴィクターは素材となる死体をいじくって人造人間を生み出したわけで、むしろヴィクターのほうが死の側にいる。自分が死の側にいるからエリザベスとちゃんとしたキスができなくなってしまったという風にもとらえられると思うんです。

 それで思い出すのは『オペラ座の怪人』のアダプテーションである、スーザン・ケイの『ファントム』です。ファムトムは母親が死んだ時に遺体を見て、自分がなぜ嫌われているかを理解する。つまり、自分が「死」のような顔をしてるからだというわけです。原作でもミュージカルでも、仮面舞踏会で「赤き死の仮面」をかぶって、死の象徴として登場します。

小川:仮面舞踏会の一番華麗なシーンですよね。しかも、フルフェイスの骸骨で、口が動くように作られている。口がガーと開いて、歯がついている。あれはお金をかけたマスクですよね(笑)。円堂さんがおっしゃった死の象徴をどれだけ前に押し出そうとしてるかという気迫が感じられます。

 暗い墓場で幽霊のように出てくるのではなく、堂々と死の仮面をかぶって出てくるという演出で、本当にすごいと思いました。これが一番怖いんじゃないか。最後のちょっと前のシーンでは、クリスティーヌが自分の父親の墓場に行くシーンがある。それはメアリー・シェリーが母・ウルストンクラフトの墓場に行って助けを求めるのと似ている場面ですが。お墓の前でクリスティーヌが「お父さん、私はどうしたらいいのですか」と言う。エンジェル・オブ・ミュージック(オペラ座の怪人・エリック)は自分のお父さんだったのか、恋人だったのかもわからないっていう時に、ファントム(エリック)が出てくる。

 あのシーンは暗くて墓地なのに、すごく心が安らぐ場面でした。だから、逆転されていますね。『フランケンシュタイン』ではヴィクターにとってエリザベスは結婚する相手で、健全で生命感にあふれている。しかしキスをした途端、彼女は「花がしぼむよう」だったというメタファーが使われるんですよね。あの時代、キスに象徴させないとうまく表現できないものだったのか。それが『オペラの怪人』でも受け継がれているんでしょうか。

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