「三井大坂両替店」なぜ江戸時代最大級の金貸しに? 信用調査書が映し出す、債務者の悲喜こもごも

 江戸時代の人々は本当に誠実だったのか? 近世日本の経済を研究する萬代悠氏の新書『三井大坂両替店』(中公新書)は、江戸時代に金融業で大きな成功を収めた三井大坂両替店の発展を紐解くとともに、債務者の信用調査書である「日用帳」や「聴合帳」といった史料に残された記録から、当時の社会風俗や人々の倫理観までを浮き彫りにした一冊だ。

 日本初の民間銀行として明治9年(1876)に創業した三井銀行(現・三井住友銀行の前身の一つ)の源流には、元禄四年(1691年)に三井高利が開設した三井大坂両替店の飛躍的な発展があった。三井は、大坂から江戸に幕府公金を送金する「御為替御用(おかわせごよう)」を請け負うことになるのだが、預かった幕府公金の返納期限が90日あったため、その間に顧客に融資し、莫大な利益を得たのだ。幕府もまた、期限までに公金が返納されていれば良いため、三井がどのように運用したとしても深くは追求しなかった。以降、三井は長い時間をかけて独自の経営手法ーー特に顧客の信用調査の技術を洗練させていき、江戸時代最大級の金貸しとなったのである。

 現代では、江戸時代の庶民は質素倹約で誠実だったとの印象もあるが、当時の三井大坂両替店の信用調査書を読むと、博打好きや派手好きで身を持ち崩すような人々も少なくなく、江戸時代の庶民全員がとりわけ倫理的だったとは言い切れないという。気になる江戸時代の借金事情と、幕府から与えられた特権を行使して繁栄した三井大坂両替店の経営手法について、萬代氏に話を聞いた。

三井大坂両替店の躍進を支えた構造

萬代悠氏

ーー本書を読んでまず驚いたのは、三井大坂両替店の躍進を支えた構造です。大坂から江戸へ送る幕府公金を無利子で預かって、返納までの猶予期間に人々へ融資を行い、その利益を得ることで大儲けしていた。そんなことがまかり通るのかと思いながらも、その工夫の数々に感心させられました。

萬代:幕府に黙認してもらうために、三井大坂両替店は遅くとも1720年代以降から偽装工作を行なっていました。その具体的な方法は本書に詳しく書いていますが、簡単に言うと三井大坂両替店は顧客から架空の取引の為替手形を買い取る体裁で融資していました。1760年代以前は、実際の取引先など細かいところまで大坂町奉行所に報告していたのですが、どうも実務役人である与力の人事異動があった際に、混乱に乗じて「詳細は報告しないでも良い」という風に変えてしまったようです。新部署に異動したばかりの与力に対して、三井大坂両替店ら幕府公金を預かる御為替組は「これまでは報告していなかった」と言い切ってしまう。そこでブラックボックス化してしまい、きちんと期日までに公金を納めさえすればどう運用してもいいと黙認されて、結果的に強い債権保護のもとで融資できるようになっていくのです。

ーー三井大坂両替店自体の昇級制度や就業規則なども、人間の業をうまく突いているというか、良く言えば奉公人の「モチベーション管理」を強く意識しているのが伺えました。

萬代:奉公人は早くて10歳から住み込み生活を始めて、16歳くらいから一人前の「手代」となるわけですが、男だけの共同生活はその後もずっと続いて、別宅住まいとなって結婚できるのは40歳近くになってからです。その意味では過酷な職場と言えますが、自主的な退職は認められていましたし、役付き以上まで勤めると退職金も高くなります。それを元手に事業を起こすという夢を抱くこともできたし、概ね年功序列の職制が採用されていたので、長く勤めれば重役になることもできました。そこまで続けられるのはほんのひと握りでしたが、別宅住みの奉公人は他の奉公人にとって憧れの存在でもあったはずで、この職制は奉公人を定着させるシステムとして機能していたようです。

『三井大坂両替店』P63より

ーーガス抜きとしての遊所通いがある程度は認められていて、重役ともなればランクが上の遊女や芸妓と遊ぶこともできるというのも、共同生活をしている男たちのモチベーション管理としては効果てきめんだったでしょうね。中には給料の前借りをしまくって遊女通いをしてしまう奔放な奉公人もいたようですが。基本給が物価に応じて上がっていくなど、真面目に働いていればちゃんと生活ができるように配慮されていたように感じます。

萬代:大坂の庶民にとって三井大坂両替店がどれくらい魅力的な職場だったのかは判断が難しいところですが、たしかに幕末の慶応二年などには物価上昇に伴う特別手当を出すなど、市況を見ながら報酬を出したりもしていました。ただ、すべてが序列化されていて、ずっと同じ人間関係の中で何十年も共同生活をするわけですから、そのストレスは大きかったでしょうね。当時の社会は長男が相続するのが一般的で、次男や三男は家から出て、手に職をつけるか事業を起こすかしかなく、三井大坂両替店のような働き先はその受け皿になっていたのですが、一度入店すると基本的に異動もないので、例えば上司と馬が合わないとかで人間関係がもつれてしまうと厳しい。欲求不満が溜まった結果、浪費してしまう奉公人もいたのでしょう。

三井大坂両替店が注力した信用調査

ーー実際の信用調査書が掲載されているのも、本書の大きな読みどころとなっています。三井大坂両替店はかなり厳しく調査をしていて、たとえ担保となる不動産などを所有していても、少しでも悪い噂がある人物には貸さないことを徹底しています。

萬代:これほど厳しい審査で商売が成り立つのかという疑問はありますよね。三井大坂両替店の場合、借入を希望した新規の顧客が十人いたとして、実際に契約に至ったのは一人か二人くらいしかいないわけですから。しかし、当時と現在とは全く違うところがあって、三井大坂両替店は為替貸付という形で幕府公金を貸付転用しているため、幕府から特別な債権保護を受けているんです。つまり、三井大坂両替店が貸した金は真っ先に回収して良いという法制度になっている。回収の可能性が高いとなると低利にできるので、借りる側にしてみれば、まずは三井大坂両替店に当たってみようとなる。金貸しは他にもたくさんあるけれど、三井大坂両替店ほどの低利はそうないから、いくら絞ってもいっぱい顧客が来るんですね。現在に例えるなら、不動産はないけれど営業成績には自信のある中小企業の社長が、ためしにメガバンクの扉を叩いて融資を依頼してみるという感じです。顧客はいくらでもいるから、三井大坂両替店は安心して選別することができました。法制度も含めて、身分社会だったからこそ成り立ったシステムといえるでしょう。

ーー本書には信用調査書の情報を落とし込んだ地図も掲載されています。当時の地価が一目瞭然で、とても興味深かったです。

萬代:顧客は融資を依頼する際、自身が担保とする財産を細かに書いた紙を持参することになっていました。たとえば不動産だったら、町のどこにあって、表間口がどれくらいで、奥行きがどれくらいで、どんな建物が建っているのかなどが詳細に記されているんです。それを若手の手代が確認して、契約に至る見込みがあれば、実際に現地に行って確認します。手代による「日用帳」には、「橋の南の突き当たりから何軒目」といった感じで場所も細かく書いてあったので、地図に落とし込むことができました。北船場とか御堂筋は浮世絵の題材にもなったりしていたので、おそらく地価が高かっただろうと推測はされていたのですが、こうして視覚的に実証した例はなく、私にとっても新たな知見を得るきっかけとなりました。

『三井大坂両替店』P125より

ーー後世に残る史料となるくらい、三井大坂両替店は信用調査に力を入れていたんですね。

萬代:そうですね。おそらく、こうした調査は手代たちにとって訓練の場にもなっていたのだと思います。周囲の人に怪しまれないように振る舞いつつ、適切に情報を得る能力を培っていたのでしょう。調査した内容は「信用調査票」として残されるので、ノウハウも蓄積されて後進の育成に役立てることもできます。遠方の農村まで行って調査することもありましたから、体力がある若者の仕事でもあったはずです。実際に現場を見て、肌感覚を養うという意味でも有益だったのでしょう。三井大坂両替店は各地に代理人を置いて調査させることもできたはずですが、手代たちによる調査にこだわったのは、この商売の肝は信用調査だという意識があったからでしょうね。

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