「化政文化」の内実を立体的に描き出そうとする野心作 永井紗耶子の直木賞受賞後第一作『きらん風月』評
世の中の 人と多葉粉(たばこ)の よしあしは 煙となりて 後にこそ知れ
昨年『木挽町のあだ討ち』(新潮社)で、直木賞をはじめ多くの賞を受賞した永井紗耶子の直木賞受賞後第一作にあたる『きらん風月』(講談社)は、江戸時代の後期に活躍した戯作者・栗杖亭鬼卵(りつじょうていきらん)の知られざる半生を描いた小説だ。東海道沿いに暮らす文化人を紹介した『東海道人物志』や、尼子十勇士の活躍を描いた『繪本更科草子』などの読本で、当時人気を博したという鬼卵。河内国(大阪)で生まれ育ち、上方の「文人墨客」――詩文や書画にすぐれ、風雅を楽しむ人たちと交流しながら、詩文や書画の腕を磨いてきた彼は、どのような遍歴を重ねながら、やがて東海道は日坂宿の地に辿り着き、そこで煙草屋を営む傍ら、戯作を著すようになったのか。
そこでひとつ、作者は大きな「仕掛け」を用意しているのだった。鬼卵とはまったく違う場所、違う立場で、彼と同じ時代を生きてきた「ある人物」との邂逅だ。その人物の名は、松平定信。かつて、江戸幕府の老中首座として「寛政の改革」を主導した人物だ。幕府での政治的な失脚後、本領である白河藩に戻り、60歳を過ぎた「現在」は、自らを「風月翁」や「楽翁」と称しながら、数々の文化に親しみ、悠々自適な隠居生活を送っている定信。その彼が、敬愛する「権現様」――徳川家康の足跡を辿るお忍び旅の途上で立ち寄った遠江国(静岡)・掛川城で、鬼卵の名を初めて耳にするところから本作はスタートする。「鬼卵」という奇妙な名前はもとより、江戸から近いとは言えない日坂宿で、煙草屋を営みながら戯作を著すその男は、どんな人物なのだろうか。興味をそそられた定信は、従者を引き連れ、日坂宿にある煙草屋「きらん屋」を訪れるのだった。
何の前触れもなく、従者を引き連れ訪ねてきた老人が、かつての老中・松平定信であることを知ってか知らずか、飄々とした態度で受け応えを続ける鬼卵。やがて彼は、定信に促されるようにして、自らの「来し方」を語り始めるのだった。3章にわたって描き出される鬼卵の半生は、さまざまな「出会い」と「別れ」――「喜び」と「悲しみ」に満ちていた。けれどもそれは、必ずしもすぐに鬼卵の「作品」としては結実しない。そもそも彼が、自ら戯作を書き始め、その名を広く知られるようになったのは、ごく最近のこと――60歳を過ぎた頃の話なのだから。若くして狂歌師・栗柯亭木端(りっかていぼくだん)の弟子となり、『雨月物語』で知られる上田秋成や、やがて京を代表する絵師となる円山応挙らと交流するも、彼らの才能に圧倒されるばかりで、自身の在り方に思い悩む鬼卵。そう、「鬼卵」という名の卵は、なかなか孵らないのだ。むしろ、彼が語る「半生」で印象的なのは、若き日に聞き及んだある家中の理不尽な「お家騒動」であり、「天明の大飢饉」の際に感じた、表現者としての「無力感」のほうなのだった。
鬼卵の「来し方」語りは、各章の最後で、定信を前にした「現在」へと立ち戻る。そして、彼の話を聞きながら、定信もまた、自らの「来し方」を振り返るのだった。8代将軍・吉宗の孫のひとりである自分にとって「忠義」とは、果たして何だったのか。白河藩主になって間もない頃に目の当たりにした「天明の大飢饉」の悲惨な光景の記憶。さらには、幕府の老中首座となって行った、さまざまな改革について。それは、朱子学以外の学問を禁じる「異学の禁」であり、犯罪の温床となる卑俗な芸文の取り締まりであり……彼は、それが民のためだと思っていた。規律を守り、世の道理を正すことが、民の安寧に繋がるのだ。その信念は今も揺るがない。けれども、鬼卵の見方は、それとは少し違うようだ。2人のあいだに走る緊張感。そう、本作は、鬼卵の知られざる「半生」を描くと同時に、江戸時代の後期に花開いた町人文化――浮世絵や滑稽本、歌舞伎、川柳など、のちに「化政文化」と称される文化の内実を、鬼卵と定信という異なる視点を重ね合わせることによって、より立体的に描き出そうとする、実に野心的な試みなのだ。