岡野大嗣『うれしい近況』大切なものに触れない“やさしさ”と欠けてはいけない“さみしさ”を内包する短歌集

《誰だろう毛布をかけてくれたのは わからないからしあわせだった》



  岡野大嗣さんの歌集『うれしい近況』(太田出版、2023年)の帯に書かれたこの短歌を目にしたとき、下の句にすこし違和感があった。わからない「から」しあわせだった、とはどういう状況だろう? と。

  わからない「けど」しあわせだった、ならわかる。誰かわからないけどありがとう、ということだろう。でも、そうじゃない。わからないからこそ、しあわせ。つまり、わからないから想像する。そしてその想像は、とてつもなくしあわせな想像だ。


 この歌について歌人の木下龍也さんは、「岡野さんの魅力が存分に表れていると思いました。誰がかけてくれたのかわからないからこそ、ふわふわとした幸せに浸ることができるわずかな時間を、子どもの手を握るぐらいの握力で書けるという......。」(連載15年!プロ歌人を輩出し続ける『短歌ください 海の家でオセロ篇』出版記念イベントレポート、「ダ・ヴィンチWeb」2023年3月29日公開)と評している。


 ふわふわとした幸せ。それを強く掴むのではなく、子どもの手を握るぐらいの握力で、やさしく掴みとる。それは大切なものに触れないやさしさだろう。


 
《鳴らさずに鳴らすアコースティックギター こころにふれるならそのように》


 《あらすじにふれずに話してくれている大切だった絵本のことを》


 『うれしい近況』では、そうした「触れないやさしさ」が歌われている。たとえばギターの弦に触れる一歩手前で弾くことで、実際に音は出ていないけれど音が聞こえてくるということがある。こころにふれるならそのように。あるいは大切なものについて話すとき。大切なものは、大切であるほど話せない。言葉にしたら損なってしまうかもしれないと恐れているから。だからあらすじにふれない。あらすじにまとめることで、大切なものがこぼれ落ちてしまわないように。

歌人・岡野大嗣

  では岡野さんの短歌は最初からこんなにしあわせでやさしかったのだろうか。ここで歌人・岡野大嗣としての初期の歩みを振り返ってみたい。


 短歌を作り始めたのは2011年、笹井宏之さんの歌集『えーえんとくちから』(PARCO出版、2010年)がきっかけだったという。装幀と川上未映子さんの帯文に惹かれ、「買って読んで、あ、面白い、となった」(「短歌研究」2022年8月号)。この歌集の装幀は名久井直子さんが手掛けており、帯が幅広く、表紙の角が丸く作られている。『うれしい近況』も名久井さんの装幀で、帯が幅広く、表紙の角が丸い。そのことについて岡野さんは「『えーえんとくちから』ぽくてうれしいなあと思っています」(阿佐ヶ谷短歌フェス ――『荻窪メリーゴーランド』×『うれしい近況』ダブル刊行記念イベント、2023年10月19日)と語っている。


 それからラジオや新聞、雑誌の短歌コーナー等に投稿し、度々採用されるようになる。そして2014年、連作「選択と削除」で第57回短歌研究新人賞次席。この連作について、選考座談会で歌人の穂村弘さんが「アイロニカルな眼差し。そして批評を突き抜けたブラックユーモア。たとえば「骨なしのチキンに骨が残っててそれを混入事象と呼ぶ日」では、現代の人間中心主義が限界に達した姿が描き出されている」(「短歌研究」2014年9月号)と評しているように、今とはかなり異なる作風であった。

  ただ、「ほかの作品がいったいどういうものなのかも読んでみたくなる。今回の一連はたぶんかなりゾーンを絞って作っていると思うんですね。でも、五十首、百首となったとき、たとえばどんな恋愛の歌を作るのかとか、知りたくなるような作風で、いいと思いました」(前同)とも評しており、この言葉が「道標のひとつになっている」(阿佐ヶ谷短歌フェス、2023年10月19日)と岡野さんは言う。つまり新人賞の頃から作風が変化した、というより、いろいろな短歌を作っている途中、というほうが近いのだろう。

さみしくて、うれしい

《もういやだ死にたい そしてほとぼりが冷めたあたりで生き返りたい》


  これは第一歌集『サイレンと犀』(書肆侃侃房、2014年)に収録された、岡野さんの代表歌のひとつである。この歌について筆者はずっと、「死にたいけど生きたい」だと思っていた。



《Disc1 さみしいことがうれしいに変わりはじめるころ Disc2》



 しかし、『うれしい近況』の最後に置かれたこの歌を読んで、もしかしたら違うかもしれないと思った。相反する気持ち、というより、どちらかが欠けたらどちらかが成り立たない気持ちなのではないだろうか。「死にたい」があるから「生きたい」があって、「さみしい」があるから「うれしい」がある。だとしたらこの『うれしい近況』もきっと、さみしくて、うれしい歌集だ。

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