村上春樹『街とその不確かな壁』に見る、老いの想像力 円堂都司昭 × 藤井勉 × 三宅香帆 鼎談
老いてなお初恋について書くということ
三宅:コーヒーショップ店主の女性は、これまでの作品の中でも特に役どころがふんわりとしたヒロインでした。結局、主人公とデートするものの性的な関係にはならず、一体なんだったんだろうと思いました。
円堂:それは三宅さんがTwitterで指摘されていたように、ちゃんと「老い」を描けるかどうかという問題に関わってくるのかもしれません。主人公は45歳の設定だけれど、実際の著者は74歳で、セックスの意味合いが変質してしまっているのかもしれない。
藤井:子易さんに「老い」や「死」について語らせてはいるけど、それとは別に45歳の「わたし」が主人公として存在するわけで。どちらに作者の価値観や考えが投影されているのか、いまいちわからないのですよね。
円堂:村上春樹が『騎士団長殺し』を出したときに、川上未映子がインタビューした書籍『みみずくは黄昏に飛びたつ』も出ました。川上の「なぜ主人公の年齢を作者の年齢より低く設定するのか」という問いに対して、村上春樹は50代や60代だと人生のしがらみがあって動きが遅くなるので、30代半ばが良いんだと答えていました。30代半ばであれば、自分が経験したことだから想像して書けると。今回は流石に30代は無理だと感じて、45歳に引き上げたのかなと思いましたが、それでも不整合があるというか、無理があったように思います。
三宅:現在の村上春樹自身の視点は、子易さんにあるのかなと思っていたんですけれど、読み終えると意外とそうではないのかなと思いました。子易さんがスカートを履いているという描写もイマイチ釈然としなくて、やっぱり主人公に村上春樹の視点はあるんだけれど、実際の年齢とズレているから不思議な感じになる。
円堂:子易さんは普通の存在ではなくなっているし、やはり老いを正面から描いているとは言い難いですね。とはいえ、村上春樹自身が積極的に老いを書こうとはせずとも、結果的に老いが表現されてしまった小説とはいえそうです。第二部の終わりの方で、主人公が若返っていきますが、その感覚こそ「老い」ではないか。私の母は今年の1月に亡くなったんですけれど、頭の中が若返っていくような感じで、例えば息子である私を自分の弟と混同したり、最近まで母と父が住んでいた家を子どもの頃にいた生家とごっちゃにして回想したりするんです。若返っていくという描写は、老いの想像力といえるかもしれません。どこまで自覚的に書いているのかわかりませんが。
三宅:想像力のよりどころが17歳のときの恋人となっているのはすごく回顧的ですね。後半のコーヒーショップ店主の女性とのデートより、第一部の少女との思い出の方がずっと鮮明に描かれているのは、円堂さんの仰るように老いたからこその表現なのかもしれません。ただ私は、村上春樹が作家として一番書きたかったのは、やっぱり17歳のときに失った女の子の話だったんだと思って、そこにはむしろ感動を覚えました。70歳を超えて、17歳の初恋の話を書けるというのもすごい才能だと思います。
円堂:ずっと初恋が心に残っているというのは、まぁわからないでもない(笑)。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』における「世界の終り」は、主人公の思考のパターンを物語の形に凝縮したという設定でしたが、今回の長編を通して、村上春樹本人にとっても「街」をめぐる一連の作品は「世界の終り」のようなものだったんだなと感じました。ただ、結末は『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』と大きく違っていましたね。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』では、主人公は自らが生み出した「街」を引き受ける形で、そこに留まることを決意したけれど、『街とその不確かな壁』では外に出ていく。
藤井:「世界の終り」における「街」は主人公の孤独を象徴する世界ですが、今回の「街」は恋人との思い出を象徴するユートピア的な世界で、似ているようで意味合いの異なる印象です。そこから出ていくという選択は、過去へのこだわりに終止符を打とうという意思表示なのかもしれません。
三宅:最後まで読んで、村上春樹がずっと書いてきた女の子にさよならをいうための小説だったんだなと感じました。
村上春樹とカズオ・イシグロの違い
円堂:三宅さんは『街とその不確かな壁』を読んで、カズオ・イシグロの作品との比較についてツイートしていましたね。
三宅:『街とその不確かな壁』を読む少し前に、ちょうどカズオ・イシグロが脚本を手がけた映画『生きる-LIVING』(黒澤明『生きる』のリメイク)を観たんですけれど、イギリスを舞台に老いや自分の死後、ナルシシズムなどを描いていて、すごく対比的だと思ったんです。
円堂:『生きる-LIVING』はもともとカズオ・イシグロが書いたと言われても納得しそうなほど、カズオ・イシグロらしい作品に仕上がっていましたね。彼の『わたしを離さないで』(2006年)は、臓器移植のためにクローンが育てられている話で、読者からは「なぜ主人公たちは逃げ出そうとしないのか」と言った声もあったけれど、カズオ・イシグロは「逃亡する話を描きたくなかった」と言っているんです。自分が置かれた立場の中で頑張っていくという状況は、ごく当たり前にあるというんですね。近作の『クララとお日さま』(2021年)も、与えられた立場の中で希望を求める物語になっている。村上春樹のような「壁抜け」(超常現象)が起こらない世界が基調となっていて、その辺りが老いを正面から描く/描かないというところに繋がっているのではないかと考えています。
三宅:カズオ・イシグロの作品には戦後、もはや大英帝国には戻れない中で、イギリスはどのように成熟していくかというテーマがあったと思います。一方で村上春樹は、学生運動などからは距離を置き、個人で文化的な生活を保とうとするデタッチメントの姿勢があった。そう考えると、歳を重ねたときにどのように成熟するかというテーマには、あまり向かない作家だったのかもしれません。
藤井:『街とその不確かな壁』では子易さんが主人公に対して、少年の抱える問題について本人に任せればいいし、手助けすべきか判断を下す必要はないとアドバイスしています。ここでは年長者としてのデタッチメントの姿勢を描いているようにも、コミットメントからは離れてしまっているようにも見えます。
円堂:本人の中では、これは単純にやり残した仕事だったという面もありそうです。三宅さんが冒頭で仰っていたように、歳をとってから自己言及的な作品を書くというのはよくあることですし、大江健三郎も後年になって初期の短編集をあらためてまとめる際ちょこまか手を入れていたし、井伏鱒二も晩年に『山椒魚』の結末部分を大きく削除したりしていました。歳をとると若い頃の仕事をどうにかしたくなる。
三宅:昔の小説をリメイクして、うまくいった作家は意外といないのかもしれないですね。やりたくなっちゃうけど、難しいことなんだと思います。
藤井:でも、次にどんな作品を書くのか楽しみにはなりました。老いそのものは作家にとって決してネガティブなことではないと思っています。谷崎潤一郎や小島信夫のように、老いて新境地を開拓するケースもありますし、村上春樹が興味深い小説を新たに書いてくれることを期待したいです。
円堂:私は今年還暦なので、もう老いの方に入るわけですけど、高校生の時に村上春樹のデビュー作を読んでいるので、今作では自分の若い頃を思い出すような感覚もありました。なんだかんだで、実は楽しく読んでいるんです(笑)。
三宅:私も実は近々、「村上春樹ライブラリー」を観にいく予定でした。いろいろと答え合わせもできそうで楽しみです。
円堂:「村上春樹ライブラリー」に行けば、『街とその不確かな壁』をさらに楽しめると思いますよ。