穂村弘が語る、短歌を“読む”醍醐味とは「詠んだ人の視点と自分の感覚を織り交ぜて追体験できるのが魅力」

若者によるサブカル的な短歌ブーム


――本作を踏まえてお聞きしたいのは、近年、若者を中心に広がりを見せている「短歌ブーム」について。実際、長く短歌の世界にいらっしゃる穂村さんのご実感としては、いかがでしょうか?

穂村:実感、ありますよ。急速に増えたというよりは、徐々にって感じですけど。分かりやすいところでいうと、ネット上で短歌が詠まれているのを見かけたり、書店で短歌のコーナーが作られていたり。文フリ(文学フリマ/文学作品展示即売会)でも、短歌集を出品するブースが増えただけでなく、そこに並ぶお客さんも多いそうですね。今や、大学のサークルでも短歌会は珍しくないですし、確実に位相は変わってきていますよ。僕らが現役大学生だった頃は、学内の短歌サークルなんて、全国的に見ても、ひとつふたつしかなかったですから。

――では、その「短歌ブーム」のきっかけは何だと思いますか?

穂村:源流を遡ると、僕の体感的には、80年代にひとつの起点があったように思います。というのも、それまでの短歌は、万葉集や百人一首の「〜〜なりけり」のように、古語で表現された難しい読み物のイメージが、今よりずっと強かったんですよ。

 それが、僕が短歌を詠み始めた1985年頃からでしょうか。今回の新刊にもある通り、普段われわれが使っている喋り言葉で詠まれた作品が少しずつ増えてきたんですよね。決定的なきっかけは分かりませんが、逆に、なぜ80年代まで古語で詠まれ続けたのか――その方が不思議です。小説や詩は、明治なら明治の、昭和なら昭和の常用語の変化に応じた表現がされてきたというのに。

――たしかに。実際、古語のままでは今の短歌ブームはなかったと思います。

穂村:じゃあ具体的に、どうして今になって若者の間で短歌が流行っているのかって話ですけど、いちばんは、インターネットの一般化による思考の変化が大きい気がしています。イメージが湧きやすい例として、着物で考えてみてください。浅草や京都に行くと、着物にブーツをあわせている若い子や外国人観光客の方がちらほらいるじゃないですか。また派手な髪色をしていたり、帽子を被っていたり、由緒正しき着物のイメージとは違った着こなしがされているとはいえ、それはそれで可愛らしさがある。

 逆に僕らくらいの世代だと、正しい着付けを学んでからじゃないと着物を着ちゃいけないと考えてしまう人たちが多いのかもしれません。でも若い人たちは、自分の感覚で好きに着こなして楽しんでいる印象があります。恐らく短歌も同じで、ここ数十年、歴史の長い文化ゆえの格式高さが参入障壁になっていたのが、そこに囚われすぎない世代が出てきたことにより、サブカル的な親しまれ方をしているのかなというふうに思っています。

――30年以上にわたり歌人として活動されている穂村さんとして、その傾向は嬉しいことなんでしょうか?

穂村:そりゃあ嬉しいですよ。僕がデビューしたばかりの頃は、“短歌をやっている=奇人変人”的な見られ方をされていたといっても過言じゃないですから(笑)。僕としては、漫画を描く、小説を書く、バンドを組んで歌うのと同一線上の活動だと思っていたんですけどね。

 最近になって、ミュージシャンの方から「穂村さんの本を読んでいました。ぜひ歌詞を書いてください」なんて言われた時は、泣きそうなほど感動しましたよ。そんな状況、夢にも思っていませんでしたから。格式を重んじたい人たちの言い分も理解できるとはいえ、やっぱり、ジャンルの世界が広がるのがいちばんですよね。

正しさだけでは語りきれない表現


――先ほど「その人という着ぐるみに入って世界が見られる面白さがある」とおっしゃっていましたが、短歌を読んでいると、視野が広がる感覚があります。他人(ひと)に話すほどでもない出来事を面白がれる隙間があるといいますか。見落としていた着眼点に、たくさん気づかされるんですよね。

穂村:そうですね。仮に、今“視野が狭い”とすれば、それは社会の中で懸命に生きている証拠かもしれませんよ。なぜなら社会の中で生きるとは、集団で掲げる目標に効率よく向かうため、強制的に視野を狭めよと命じられることでもありますから。

――といいますと?

穂村:ある時、電車の中で部長と新入社員なのか、親子ほど年が離れて見える男性サラリーマン二人による興味深い会話が聞こえてきたんです。どういう内容だったかというと「女はみんなピンクが好きだからな」とステレオタイプの典型例のような発言をした部長に対し、新入社員の若い男の子が「部長、黄緑が好きな女もいるんですよ」と返していて。部長は「そ、そんな女がいるのか!?」と、衝撃を受けたような反応をしていたんですよね(笑)。

 端から見れば「いや、そりゃいるだろう!」とツッコみたくなる話ですが、その部長も、最初から「女はみんなピンクが好きだ」と思い込んでいたわけではないと思うんですよ。恐らく、そういう社会環境の中で揉まれるうちに、そういう固定概念が染み付いてしまっただけで。極端な話、同調圧力の強い日本では、「こうきたらこうだ」と思い込んでいないと、途端に社会を生き抜くのが困難になってしまうんですよね。

――なるほど。妙に納得する話です。

穂村:ただ、そういう社会だからこそ、みんな、固定概念をリセットしてくれる“何か”を求めているんでしょうね。身近なところで言うと、お笑いなんかは、「こうきたらこうだ」と思い込んでいた固定観念が解体されるところに面白さが詰まっているわけですけど、短歌もそれに近い気がします。

 例えば、本作には収録していませんが、「『やさしい鮫』と『こわい鮫』とに区別して子の言うやさしい鮫とはイルカ」(松村正直)という短歌があって。要は、まだイルカという単語を知らない子どもが、普通だったら思いつかない区別でその存在を表現しているんですよ。面白いですよね。

 もしその子がイルカという単語を知っていたら、鮫は鮫、イルカはイルカと正しく言い表したはずです。でも、それだと短歌は生まれていません。そう思うと、無知や間違いは、時に新しい価値観の第一歩になり得るんですから無駄じゃないですよね。まぁ、ならない可能性も大いにあるので、無知でいる方がいいとは言い切れませんけど(笑)。正しさは、正しさという現状の価値観を強化するだけに留まりますから。短歌のように、間違いを面白がれる術を持っておいて損はないと思います。

――もしかすると若者の間で短歌が流行っているのは、固定概念に囚われない多様的な社会を実現するための希望なのかもしれませんね。ここまでお話をお伺いして、そんなふうに感じました。

穂村:短歌という、正しさだけでは語りきれない表現に可能性があることを、直感的にというのか、何となく感知している若い方は多くいらっしゃるように僕も感じます。「文字数が少ないわりに小説本と定価が同じなんてコスパが悪い」と評価されたこともありますが(笑)、量的なコストパフォーマンスでは語れない感覚を主張できるのが短歌の魅力でもありますし。今起こっているブームの先に、若い人たちがどんな短歌を詠んでいくのか――密かに、楽しみにしていますよ。

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