【伊集院静さんが好きすぎて。】気鋭の放送作家・澤井直人が語る「伊集院静さんの“眺めのいい人”」

 私生活のすべてが伊集院静「脳」になってしまったという放送作の澤井直人。彼がここまで伊集院静さんを愛すようになったのは、なぜなのか。伊集院静さんへの偏愛、日々の伊集院静的行動を今回もとことん綴るエッセイ。

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 伊集院さんがこれまでの人生の中で、文壇、スポーツ、記者、芸能、夜のお店…異能の人々との素顔が垣間見える交遊録が詰まった『眺めのいい人)』(文春文庫という一冊のエッセイ本がある。

 伊集院静さんが、指針というものがなく、向かうべき陸が見えなかった時に、やさしく声をかけてくれたり、手を差しのべてくれた人が沢山いた話だ。

 その交友関係は見事なもので、人生の中で数多くの美しき明かりを見てこられたのが想像に難くない。名前を見れば、蒼々たる人物ばかりである。

 井上陽水、北野武、長嶋茂雄、松井秀喜、武豊、宮沢りえ、色川武大、山口洋子、ちばてつや、阿木燿子…他 (※敬称略)

 その中でも特に印象に残った「眺めのいい人」のエピソードを紹介させて頂く。

 それは、伊集院さんが30代初めの頃。先輩作家や編集者との出逢いが小説家の方向へ導いてくれたのは勿論だが、その人との出逢いによって、小説以前の“物語を書く“”ことを続けさせてくれた大きなキッカケになったという。

 伊集院さんが“逗子のなぎさホテル”(【独白】私生活のすべての思考は「伊集院静ならこの時どうする?」気鋭の放送作家・澤井直人がここまでハマった理由)に住んでいた頃だ。懐のお金も宿賃で失せかけていた時、或る人から逢いたいとの連絡が入った。

 その人は映画会社のプロデューサーで、以前伊集院さんがコマーシャル・フィルムの演出をしていた時、知り合った人であった。

「映画のシナリオを書いてみませんか?
シナリオを若い人に挑戦してほしいんです」

 そのシナリオを演じる俳優の名前は、昭和を代表するあの国民的大俳優、“高倉健”だった。伊集院さんの身体の芯が反応する。高倉健からの丁寧な手紙まで頂く。その手紙の文字を見ながら自分を鼓舞し、遅々として進まない原稿を進めていったという。

 そこから、後に柴田錬三郎賞を受賞した名著『機関車先生』が完成する。もう一本は未完のまま『丘の道』というタイトルで原稿が残っているというが、二本ともご本人に渡すことが出来ないまま高倉健さんは逝ってしまった。

 それでも、この二本を書き上げようという気力が、今思えば、小説家の道へ歩ませたのかもしれないと伊集院さんは言う。

 「逢えばそれだけで、人に何かをさせてしまう役者さんは
おそらく日本ではこの人だけであろう」

 ある人との出逢い、かけてもらった言葉……傍(はた)から見ると些細なことでも、
本人にとっては一生忘れられない出来事になり、仕事への姿勢は大きく変わっていく。

 私にも、これまで放送作家の仕事をしてきて“眺めのいい人”との出逢いがあった。

 一人目は、バラエティのレジェンド放送作家。大先輩のOさん。フジテレビのゴールデン帯のレギュラー番組が最初の出逢いだった。それは、地上波のゴールデンでは珍しく若手の放送作家6人が集められた番組だった。

 初めての番組定例会議。フジテレビの大会議室の扉を開けるとその作家さんがいる。優しい目が印象的だった。若手はもちろん、極限の緊張の中でネタをプレゼンする。そんな中、私を含む若手作家の出すアイデアを「これ新しいね」とポジティブに面白がってくださった。

 自然と若手作家の緊張の糸も解れ、笑いの絶えない企画会議になった。大御所作家さんの美しい振る舞いに、ディープインパクトを受けたのは言うまでも無い。

 その番組が終了してから数年後、その先輩作家さんから急に連絡が来た。なんと、国民的お笑い番組に「作家で手伝ってくれませんか?」とのお誘いだった。学生時代から見ていた番組でもあり、いきなり訪れた夢の様な出来事である。

 収録本番の3ヶ月前から、間近で勉強させてもらう時間は、それはそれは贅沢で、
目から鱗が落ちる連続だった。これまで見たことのない放送作家の仕事に心底驚いた。

 芸人さんのネタの中から、驚くべき目利きによって核となるところを抽出し、誰もが納得するようなコミュニケーションによって、ネタの精度をどんどんと上げていく、これらを全てその作家さんが主導で行う。(他の番組では通常このような業務はディレクターさんの仕事である)

 本番前日のリハーサルでは、芸人さんに最後の最後まで言葉をかけて妥協なくネタや台詞のニュアンスを整えていく動きにも感動した。この番組が長く続き、多くのお笑いファンに愛される理由は、こういう細かな下地があるんだと知った。

 舞台裏のスタートと芸人さんとの信頼関係(チームワーク感)も他のお笑い番組の収録では味わったことがないような空気感だった。

 こんなにもひとつの番組に愛情を注ぎ、向き合っている作家さんに出会ったことがなかった私にとって、のっぺきならない衝撃だった。収録が終わった瞬間、胸がとても熱くなり、自然に涙が出てきた。誰にも見つからないよう、空になったステージを眺めていたを今でもよく鮮明に覚えている。

 もう一人は日本テレビのレジェンド総合演出家のTさん。前々から業界人たちの話の中で、「Tさんは本当に凄い」と噂は耳が磨り減るくらい聞いてきた。(不思議なのは、その噂をするのは局の後輩ばかり。しかもいい話ばかりなのだ)

 テレビマンなら誰しもが憧れる、都市伝説とも言わんばかりの伝説の会議を自分の目で確かめる日が遂に来たと、興奮が冷めやらない。

 その会議を一言で言うなら、“その場所に参加している全員がひな壇ゲストになれる会議”であろう。

 例えば、ゴールデン帯の番組会議は、私くらいの若手作家(32歳だが、テレビの世界では十分若手)だと総合演出さんと会議中に会話することは宿題(ネタ)のプレゼンの時間以外は中々難しい。

 しかし、会議中、こんな末端の作家にも「澤井はどう?」と急にボールが飛んでくる。それだけではない、一番若いADさんにも真剣に意見を聞く。いわば、皆に責任を持たせてくれているのだ。

 この景色、どこかで見たことがあるなと思っていたら、全盛期のMC島田紳助さんのスタジオトークと全く同じだった。皆のエピソードを交え、笑いを量産し、空気を支配するのにそっくりだった。

 それにこの会議のすごいところは、1時間ピッタリに終わる。ダラダラしない、この短さにも正直概念をひっくり返された。

 そこに参加している人が全員、T演出家のことが大好きなのがよく分かった。そんなチームが結局一番強いんだと。

 どんな世界でも、きっと我慢してでも長く続けていると、ふいに目の前に“絶景”が現れることがあるのだ。

 若い放送作家で集まると、「俺たちで番組を作っていこう!」そんなことを言いがちだ。しかし実際には、この世界で百戦錬磨の経験を積んだテレビマンからは多くの“学び”があると確信している。

 「もっと多くのことを先人から学びたい。景色を見たい」作家を含む若い世代とテレビの会議室で出会うことが少なくなった今、伊集院さんがそうであったように、眺めのいい景色を沢山見て、後世に伝えていきたいと強く思う、今日この頃である。

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