アントニオ猪木、壮絶だった糖尿病との闘い 著書で明かしていた血糖値596からの回復

 アントニオ猪木が心不全で亡くなり初七日が過ぎた。

 1999年にジャイアント馬場が亡くなったときもそうだったが、昭和のプロレスファンにとって、この喪失感は言葉にできないほど大きなものであろう。

 いや、どこかで覚悟はしていた。猪木はここ数年、難病に苦しんでいたからだ。年間に100万人に3〜5人程度が発症しているという全身性アミロイドーシス。タンパク質が臓器に付着し、身体の異常を引き起こす難病である。

 その闘病生活がいかに苦しかったか、我々は想像することすらできない。ただファンとは勝手なもので、猪木ならいつか克服してくれるんじゃないかと希望も抱いていた。普通に考えれば厳しい状況だったとは思うが、これまでがそうだったように、苦難を突破してくれるのではないかと信じていたのである。

 猪木が大病を患ったのは今回が初めてではない。80年代初頭、重度の糖尿病で引退の危機に面したことがある。その当時の様子は、2002年に出版されたアントニオ猪木の著書『もう一つの闘いー血糖値596からの糖尿病克服記』に克明に記されている。

【血糖値596。本当の敵は自分自身だった】

 猪木が新日本プロレスのコミッションドクターから糖尿病を告げられたのは1982年6月1日。プロレスラーとして脂の乗り切っていた39歳のときだ。

 1981年にタイガーマスクを生み出した新日本プロレスは、興行も順風満帆。「これはプロレスブームではなく新日本プロレスブームである!」と啖呵を切ったのは、当時の営業本部長である新間寿だった。猪木はといえば、アンドレ・ザ・ジャイアント、ハルク・ホーガンと熾烈な争いを繰り広げる真っ最中。海外も含め年間約200試合をこなしていた。

 しかし、1982年のゴールデンウィークの頃から引いた風邪の直りが悪くなり、身体がだるく、焼けるような喉の渇きを覚えるようになる。トイレの回数も増え、1日に20回以上小用を足していた。それでも猪木は休むことなく、試合の合間を縫ってドバイ、ブラジル、韓国と世界中を飛び回っている。

 著しく調子が悪くなってきたため、遠征バスで採血し検査をすると、医師は血相を変えた。

 「大変ですよ、すぐに入院してください!!」。

 あまりの血糖値の高さに医師は驚愕し、よくこんな状態でリングに上がっていたものだと怒りを通り越して呆れられたほどだったという。最もひどかったときで、血糖値596。いつ死んでもおかしくない状態でリングにあがっていたのだ。

  それでも、過密スケジュールで休むことができなかった猪木。ようやく慈恵医大に入院できたのは1か月半後の7月14日だった。

  プロレスラーは過酷なトレーニングと同時に、食事で摂取するカロリーも桁外れだ。猪木の1日の平均摂取カロリーは、5000カロリーの食事を3回、計1万5000カロリー。常人なら考えられない量だが、プロレスラーはひたすら食べて練習することを繰り返すことで強靭な肉体になると信じられていた時代だ。当然だが、糖尿病の原因のひとつに十分なり得る。

  もうひとつ、原因に挙げられるのがストレス。連日のようにリングに上がりファイトをすること自体が過度な運動(=ストレス)であり、こちらも血糖値を上げてしまう要因だ。

  医師団の結論としては、今後このような暮らしを一切やめること。つまり現役を引退しなければ命の保証すらできない、という判断だった。

【インシュリン投与を拒否。そのかわりに実践したこと】

 一度は絶望の淵に落とされた猪木だったが、すぐに不屈の闘志をもって復帰に挑む。
その方法が、型破りだった。

 まず、通常行うインシュリン注射を拒否。猪木が実行したことは、以下の2点だ。

1日の摂取カロリーを1/7にした。

  医師の助言をもとに2000カロリーの食事に制限。1日に1万5000カロリー食べていた人間が、いきなり1/7にするのはさぞかし厳しかろう。

  入院するまでは、以前と変わらずメインイベンターを務めていたため、お粥をすすり、お腹を空かしながらリングにあがっていた。遠征中は、千切りキャベツを丼に山盛りにして食べていたことも。それだけでいくらか腹の足しになったそうだ。

病院の階段で1人昇降運動を始めた。

  これは医師から勧められたわけではない。医師の目を盗んで、猪木本人が自主的に始めたものだ。最初は手すりにしがみついていなければあがれなかった階段も、徐々に歩数を増やしていき、やがて小走りとはいえ、走ることができるまで回復してきた。

  すると、血糖値は驚異的に下がり続け、3週間で正常値まで下がっていった。

  結局、インシュリン、その他の糖尿病用の薬を使わずに、食事制限と有酸素運動だけで通常値まで回復したことになる。

  「奇跡のようなできごとだ」と医師は口をそろえたが、猪木本人は決して奇跡だと思っていなかった。人間が本来持ち合わせていた力を信じていたからだ。それは、自然治癒力と呼ばれるものだ。

  猪木は退院後、「ブラディ・ファイト・シリーズ」の開幕となる8月27日からリングにカムバック。休んだのはわずか44日。復帰戦ではハルク・ホーガンとタッグを組み、鬼軍曹といわれたサージェント・スローター、エド・レスリー組に勝利。その後シリーズすべてを全うしている。

【猪木は、死ぬまでアントニオ猪木を演じた】

  だが、糖尿病は完治するものではないことはご存じの通り。プロレスラー・アントニオ猪木として、糖尿病は致命的だったに違いない。ファンの目から見ても、この頃の猪木は全盛期の肉体が失われつつあったことがわかった。

  糖尿病以降、猪木はずっと食生活の制限を余儀なくされた。食べれば糖尿病の悪化、食べなければ闘えない、という状況下にあって、それでも新日本プロレスを牽引していかなくてはならないという矛盾を抱えながら。

  それにしても、新日本プロレスの中で、なぜ猪木だけが糖尿病になったのか。

  それはトップレスラーとしてのストレスもあったのではないか。1976年に行われた「アントニオ猪木vsモハメド・アリ 格闘技世界一決定戦」も、糖尿病の遠因だったのではないかと本人は述懐する。

  アリ有利なルールに縛られ、負ければ新日本プロレスの地位は失墜するという重責の中で戦い抜き、試合後は「世紀の凡戦」と酷評され、9億円もの借金を背負うはめに。巨額の負債を返済するために、万全ではない身体に鞭打ってリングに上がり続けることになったのだから。

 糖尿病と全身性アミロイドーシスの因果関係はわからない。

 ただ猪木は、晩年に首や腰、胆石の手術も経験しており、満身創痍であったことは間違いない。長年の闘いが身体を蝕んでいた、という見方はできるだろう。

 それでも、猪木は「闘魂」と「元気」を胸にアントニオ猪木を演じ、ファンが求める期待に応え続けた。いや、ファンがアントニオ猪木をやめさせてくれなかったといってもいい。

 長州力が訃報の際にSNSでコメントしたように、アントニオ猪木から、ようやく解放されたのかもしれない。棺の中のお顔は、とても穏やかだったそうだ。

 埋めようがない喪失感。

 ファンができることは、生前の猪木がいかに凄かったのか、を後世に伝えていくだけである。

 アントニオ猪木様、心より、ご冥福をお祈り申し上げます。

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