鈴木涼美×島田雅彦×宮台真司『ギフテッド』鼎談【前篇】「娘を使って自己実現を図ろうとする行為は毒親的でありつつ私小説的」

 第167回芥川賞候補になった鈴木涼美の初中編小説『ギフテッド』(文藝春秋)の刊行を記念して、本人、社会学者・宮台真司、さらに芥川賞選考委員でもある作家・島田雅彦を招いたトークイベント「100分de『ギフテッド』」が、8月20日にLOFT9 Shibuyaにて開催された。『ギフテッド』は、歓楽街の片隅のビルに暮らすホステスの「私」が、重い病に侵された母を引き取り看病し始める物語で、『「AV女優」の社会学』(青土社)や『身体を売ったらサヨウナラ』(幻冬社)などの著作で知られる鈴木涼美ならではのリアルな描写と、端正な語り口が印象的な小説だ。かねてより鈴木涼美と縁のある島田雅彦と宮台真司は、本作をどのように読んだのか。リアルサウンド ブックでは、本イベントのレポートを前後篇でお届けする。司会はジョー横溝。(編集部)

出来損ないは愛おしい

鈴木涼美『ギフテッド』(文藝春秋)

ーー鈴木涼美さんの初中編小説『ギフテッド』は、主人公の女性がいわゆる風俗産業に勤めていて、店のある繁華街の近くに住んでいるんですけれど、そこに病気で余命わずかな母親が転がり込んでくるというストーリーです。母親は、ほどなく病気が悪化してまた病院に戻っていってしまい、死が近づくにつれて親子の関係に微妙な変化が起こります。母娘関係、死、愛といったテーマが描かれている作品です。

 島田雅彦さんは、もともと涼美さんのご両親(父:法政大学名誉教授の鈴木晶、母:翻訳家の灰島かり)ともお知り合いで、彼女が小さな頃からご存知だそうです。また、涼美さんの著作『身体を売ったらサヨウナラ 夜のオネエサンの愛と幸福論』(2014年/幻冬舎)には解説を寄せていて、「自身の体験を昇華させて小説を書いたほうが、持ち前の批判精神を発揮するには好都合である」と勧めています。島田さんは、第167回芥川賞の選考でこの『ギフテッド』を受賞作に推していたそうですが、まずは本作をどのように読んだのか、所感を教えてください。

島田雅彦

島田:近頃は「毒親モノ」がジャンルとして成立するほど、母親と娘の関係を扱った小説は多く、本作も大きくはそういう枠の中に入る作品です。ラストでお母様の死を看取るところにカタルシスがあり、私には娘が母を赦す物語として読めました。母親への態度がとても冷静で、語り手の生き方を通して母を眼差すときに、どこか自分の未来を重ねるようなところがある。お母様は成功しなかった詩人であり、最後の作品を遺したいという悲願を抱いて娘のもとに転がり込むのですが、この遺していった詩がすごく良いんです。なにが良いかというと、まったく傑作とは言えないような仕上がりで、はっきり言って詩としてはへぼいんだけれど、そのことがいっそう胸に刺さるんです。普通ならもっと上手く書けるだろうところを、あえて失敗作の詩を持ってくるところが技巧的だと思いました。

 選考会ではイチオシで推薦しまして、いつもは7割くらいの勝率なのですが、今回は外してしまい残念でした。芥川賞の選考委員は百戦錬磨のいやらしい人たちだから(笑)、難癖を付けたりするのが得意なんです。しかも、こちらが推す理由と向こうが推さない理由が同じだったりする。例えば、向こうはディティールについて「あざとい」と言ったりするわけですが、「あざとい」というのは「技巧的」という意味でもあって、別に悪いことではない。そういうところが選考会の難しいところです。

鈴木:褒められるイベントはいいですね(笑)。今日はとても楽しいです! 私はもともと値付けされる身体を持った女の人生というものに興味があって、今回の小説では売り買いされる身体を持った娘と、かつて売り買いされる身体を持っていた母の関係を書いてみようと思いました。まったく「ギフテッド」じゃない詩人だった母親には変なプライドがあって、売れない詩集を出したり、舞台女優として中途半端に脱いだりした半生を過ごし、最後に娘に遺したのは出来損ないの詩だった。出来損ないって、愛おしいじゃないですか。だから、島田先生にそこを褒めていただいたのはすごく嬉しかったです。

ーー宮台さんは『ギフテッド』をどうお読みになりましたか?

宮台真司

宮台:まず、『身体を売ったらサヨウナラ』などの小説以前の著作で、涼美さんが男性よりもむしろ女性をよく観察しているのは感じていましたのでーー男性を描く場合も女性の男性に対する観察をさらに観察する再帰的形式なのでーーそれが小説にどう生かされているのかが楽しみでした。今回は母を描くものでしたが、期待通りの作品だったと感じています。

 次に、読み始めて気に入ったのは、誰々がこう思ったとかこう感じたといった抒情的な描写に頼るのではなく、事象を羅列するように書いている叙事的なところ。映画批評家として日本人が大好きな抒情のパターンにうんざりしているので、書き方が僕の好みに合っていました。むろん風俗の界隈で揉まれた主人公が、人に対して距離を置いて眺めるのは当たり前のことで、設定的には適合しています。

 加えて、作品を途中まで読んで、吉田恵輔監督の『空白』を思い出しました。父と娘の関係を描いたもので、娘の死後に、二人が或る日の同じ雲を絵に描いていた事実を父が知り、両者が「同じ世界」に入って「一つになる」ことで、娘を初めて弔えたという話です。涼美さんの今回の小説も、同じ構造です。そのことで、叙事的なのに、抒情的な作品の数々よりも遙かに読者の感情を揺り動かします。

 小説のタイトル「ギフテッド」は「才能が与えられた」という意味でもあるけど、社会学者にとってはお馴染みのアトリビュートーー性別・年齢・人種・容姿など自ら選ぶことができずに持って生まれた属性ーーでもある。社会が能力主義化している昨今、人は自分が何をギフトされているのかに、敏感にならざるを得ない。その意識が小説の隅々にまで反映されているのが非常に印象的でした。

 最終的には、母が否応なく選ばされた女の人生というものに触れて、娘は母と「同じ世界」で「一つになる」ことができ、母を悼み、弔うことができるようになるわけです。最近の映画、セリーヌ・シアマ監督の『秘密の森の、その向こう』も、8歳の娘が、森の奥で8歳の母に出会い、「同じ世界」で「一つになる」ことで、家を出た母との間での相互浸透を獲得するという話でした。

 公開中の深田晃司監督『LOVE LIFE』も、「同じ世界」に入れていたはずの夫婦や元夫婦や親子が実は「同じ世界」に入れていなかったという、「同じ世界」に入ることの不可能性ーーにもかかわらず「同じ世界」で「一つになる」ことを願望せずにはいられないというロマン(不可能なことへの願望)ーーを描きます。日本で震災があった十年ほど前から内外にそうしたモチーフの作品が増えています。

 『秘密の森~』も、子ども時代の親に出会って一緒に遊ぶことは不可能なので、やはり不可能なことのへの願望を描いているのです。不可能なことを願望することは非合理ですが、その願望ゆえに、たとえひとときであれ、「同じ世界」で「一つになる」ことができたという主観的な体験が実存の享楽を与えます。こうした最近的なモチーフを、涼美さんの小説が共有しているのがとても印象的でした。

鈴木涼美

鈴木:『ギフテッド』というタイトルを見て、特別な才能を持った天才児についての話だと思った人もいるみたいですけれど、そういうお話ではないですね(笑)。宮台先生の言うように、選ぶことのできない属性という意味合いが強いです。加えて、私は夜の街にいながらギリギリのところで裸にまではならない子には、何か特殊な能力があるように見えていた、という意味もあります。というのも、私は気づいたらカメラの前で裸になっていたから。なぜ彼女たちがギリギリでとどまることができたのか、神から与えられたギフトじゃないとするとどんなことが考えられるか。彼氏が好きだからとか、もともと持っている倫理観とかそれぞれの理由があるはずで、その一つの可能性をこの小説では書いたわけです。

 私の場合、ちゃんとした教育を受けさせてくれた家庭があり、母親は『ギフテッド』の主人公の母親より遥かに強く、なぜ売春が人を傷つけるのかも論理的に言葉でしっかりと説明する人でした。児童文学の研究をしていた人で、たくさんの言葉と愛情で私を育ててくれました。にも関わらず、私は母が嫌がることのベスト3をすべてやって大人になりました。だから、言葉で教え導くことの困難というか、その無力さに対する小さな絶望感も持っています。近年の売春を巡る言説をいろいろと読んでいても、現実の圧倒的な引力を前に、どこか無意味であるように感じてしまうんです。

 『ギフテッド』の主人公が母から与えられたものは、私が母から与えられたものよりもずっと貧相だし、間違っているし、できれば欲しくないものばかりじゃないですか。母親に火傷の痕を付けられるなんて、すごく嫌ですよ。でも、彼女は火傷痕をタトゥーで覆っているがために、脱ぐことには強い抵抗があるし、めちゃくちゃギャラが安くなってしまうから、きっとこの先もAVには出ない。私は、普通に生きていたらみんなが娼婦になるのだけれど、でもそれぞれになにかしらのバリアが張られていて、多くの人はそうならずに生きているのではないかという感覚があります。そして、言葉や論理を尽くしても大したバリアにはならないんです。火傷痕を付けろと言っているわけではないけれど、その悲惨な火傷痕によって売春を思い止まる女性を描くことができれば、逆説的に言葉の無力さを浮き彫りにすることができるのではないかと考えました。

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