宮沢和史が振り返る、沖縄と歩んだ30年 「『島唄』は常に新しい曲のつもりで歌ってきた」

 名曲「島唄」から30年。沖縄が日本復帰50年を迎えたこの年に、宮沢和史が新著『沖縄のことを聞かせてください』(双葉社)を上梓した。「島唄」(1992年)からはじまった30年に及ぶ沖縄との関わりを綴った宮沢のエッセイ、そして、具志堅用高(元ボクシング世界王者)、又吉直樹(芸人、作家)、島袋淑子(元ひめゆり学徒隊・ひめゆり平和祈念資料館前館長)など、沖縄にさまざまな形でルーツを持つ20代〜90代までの10人との対話を収めた本作。「音楽家である僕が、音楽家として沖縄を考える」という視座に立って制作された本作について、宮沢自身に語ってもらった。(森朋之)

悩ましかった“沖縄との距離感”

——『沖縄のことを聞かせてください』が刊行されました。沖縄の平和への祈りを込めた「島唄」の発表から30周年、そして、沖縄の日本復帰50年の節目において、大きな意義がある作品だと思います。

宮沢和史(以下、宮沢):いまおっしゃった「島唄」から30年、沖縄の復帰50年に加えて、今年は5年に一度の「世界のウチナーンチュ大会」(海外の沖縄県系人を招待して開催されるイベント)もあるし、国民文化祭も沖縄で行われるんですよ(美ら島おきなわ文化祭2022)。今年はいつも以上に沖縄に関心が向くでしょうし、この本も一つのきっかけになったらいいなと思っています。

 「島唄」に関して言えば、僕はこの30年、常に新しい曲のつもりで歌ってきたし、総括したことがなかったんですよ。取材などで聞かれれば答えてきましたが、しっかり振り返ったことはなかった。今年はいい節目だし、沖縄との距離感を含めて、一度まとめてみようと思ったんですよね。ただ、僕自身が語るだけでは物足りない。30年通ってもまだまだ知らないことが多いし、沖縄に縁がある方にインタビューをして、それぞれの沖縄に語っていただくのはどうだろう、と。上は90代、下は20代まで、幅広い方にお話を伺うことができて、僕自身、多くのことを学ばせてもらいました。

——対談相手は、沖縄県出身者初の世界チャンピオンとなった具志堅用高さん、沖縄県出身の父親と奄美出身の母親を持つ又吉直樹さん、現代美術家の山城知佳子さん、八重山民謡歌手の大工哲弘さん、ひめゆり平和祈念資料館前館長の島袋淑子さんなど、様々な背景を持った方々です。

宮沢:沖縄と直結した活動を続けられている方、沖縄との関わりが何かを生み出す原動力になっている方など形はさまざまですが、皆さん「沖縄とはなんぞや?」という意識を持たれている方々ですね。八重島、宮古島の人たちにはまた別の思いもあるし、沖縄という言葉では簡単に括れないんですよね。沖縄戦(太平洋戦争末期の1945年、沖縄諸島に上陸した米英を中心とした連合国軍と日本軍の戦い)を経験された方と復帰後に生まれた人の間でも捉え方は違うし、いろいろな世代の方々に話を聞けたことはとても良かった。なので、タイトルも「沖縄のことを聞かせてください」にしたんです。あとは注釈ですね。まるで辞書のような量なんですが、これを読むだけでもかなり沖縄のことを知ってもらえると思います。

——沖縄について語り合うなかで、「自分は何者か」という話になっていくのも興味深かったです。

宮沢:それは僕自身もそうだし、みなさんもそうじゃないですか? 「日本人って何だ?」「日本とは?」と聞かれてもよくわからないし、この国のなかでも戦争があり、互いに仲違いをしていた時期もあったわけで。そういったことはほとんど忘れられ、すっかり物質社会になってしまい、日本らしさも失われつつある。ところが沖縄は、琉球王国の時代から中国、薩摩、アメリカなどに統治されてきたにも関わらず、独自の文化が受け継がれ、今も若い人たちがそうした文化や芸能に触れて「かっこいい」と感じているんです。これは一体何だろう?という思いとともに沖縄を見てきた30年でもありましたね。

——なるほど。本作に収められた山城知佳子さんとの対談のなかで宮沢さんは、<「ああ、沖縄と自分の関係はこれでいいんだ。自分の好きな民謡や芸能のことを人に伝える仕事をしていくのが、自分の言葉で沖縄を語るということなんだな」と思えるようになったのは、ここ最近のことです>と語っています。沖縄との距離を掴むまでには、相当な時間がかっているわけですね。

宮沢:僕は沖縄出身ではありませんし、もともと社交的ではなく、誰とでもすぐ仲良くなるタイプではないんですよ。それに、「島唄」を発表した30年前は、沖縄とヤマト(日本本土)の壁が今よりも高かったですし、音楽家同士の交流も少なかったですからね。細野晴臣さん、加藤登紀子さん、久保田麻琴さん、長谷川きよしさんなどが水面下では沖縄との交流を図っていましたが、表立った動きはほとんどなかった。

 「島唄」は最初、『思春期』というアルバムの中の一曲でした。その後、まず沖縄で一部の歌詞をウチナーグチで歌ったバージョンをリリースしたんですが、それに沖縄で火がついたことで、日本語バージョンを全国で販売することになりました。当初から大半の方には支持してもらっていたと思います。ただ、沖縄の音楽関係者、伝統音楽に携わっている方のなかには、「ヤマトの人間が三線を弾いて、ロックをやるとはどういうことか」という意見もあった。数的には少なかったのですが、その声はすごく気になったし、そういう方々たちともつながりたいと思ったんです。批判や糾弾されればイヤな気持ちにもなりますが、それでも沖縄の人たちと仲良くしたかったし、「島唄」に込めた思いを認めてもらいたいと。「あいつは一時的に沖縄を通り過ぎただけだ」とは思われたくないし、一定の距離を取りながら、それから30年通ってきたこということですね。ある時期から「宮沢、まだ沖縄にいるのか」と思ってもらえるようになって、少しずつ仲良くなれたんだと思います。

ただの使命感だけでは、30年も通わない

——そこは沖縄と本土の距離が近づいたというより、宮沢さんの努力の賜物だと思います。

宮沢:どうなんでしょうね。本にも書きましたが、「あんたの音楽こそ帝国主義じゃないのか」と言われたこともあったんですよ。「島唄」に<くり返す悲しみは 島渡る波のよう>という歌詞があって。それは中国、薩摩、アメリカ、日本と帝国主義の思惑に左右された沖縄の姿を表現したものなんですが、「あんたの『島唄』こそ帝国主義じゃないか。沖縄を使って金儲けをしているだけだろう」と言われ、「そう捉える人もいるのか」と。そのときは「沖縄の島々に2度と戦争が起きないようにという思いで作った曲が、そんなふうに解釈されるなんて……」と思ったんですが、同時に「これを避けて通ることはできない」とも考えたんですよね。時間はかかるだろうけど、長く歌っていけば、わかり合えるんじゃないかなと。それだけ沖縄が好きなんです。ただの使命感だけでは、30年も通わないですよ。

——「島唄」がまさにそうですが、互いの距離感を縮めるなかで、芸術やスポーツの力は大きいですよね。

宮沢:そうだと思います。具志堅さんが世界チャンピオンになったことも、本当に大きかったんです。当時もすごいニュースだったし、沖縄の人々に対する風向きが一気に変わって。「沖縄、すごいね」と言われるようになり、胸を張れるようになったわけですから、すごい変化だったと思います。沖縄からの発信も以前に比べると桁違いじゃないですか。音楽では安室奈美恵さんやSPEEDに憧れた人たちは多かったし、今は素晴らしい俳優さんも数多く活躍していて。そういったことをきっかけに、沖縄のことにもっと興味を持ってもらえるならいいなと思っています。県民の4人に1人が犠牲になった沖縄戦によって日本の復興があったわけで、最低限の知識を持つことはマナーだと思うので。

——『沖縄のことを聞かせてください』でも書かれていますが、宮沢さんが制作されたCDボックスセット『沖縄 宮古 八重山民謡大全集(1)唄方〜うたかた〜』も大きな役割を果たしたと思います。

宮沢:古くから伝承されている音楽には、古典音楽と民謡があります。古典音楽は琉球大国が公式に認められた音楽で、日本の雅楽と同じような立ち位置ですね。曲数も決まっていて、楽譜も作られている。いまもきちんと伝承されていて、さらに洗練された形で表現されているので、僕がやるべきことは何もないんです。

 一方、民謡というのは基本的に、一代限りの芸なんですよ。師弟関係があって、弟子は師匠のマネをするわけですが、独立して自分の表現を磨いていくと最終的には違うものになるので、それを記録しておかなければ消えてなくなってしまうんです。以前から「記録として残しておきたい」という思いがあったんですが、初めのうちは、「今の自分には、まだできないな」という思いがありました。しかし、2011年の東日本大震災を目の当たりにして、「自分の人生も5分後にはどうなるかわからない。やりたいことは出来るだけやっておこう」と思い、後の世に沖縄民謡を志す人のため、民謡を「歌の教科書」ともいうべき記録音源としてCDに収めることを決めました。沖縄本島から八重山、宮古、南大東島まで、民謡を歌っている方々にお願いしてスタジオにお越しいただいたり、離島の方は機材を担いでご自宅を訪ねたりして演奏を録音させてもらったんですが、みなさんすごく協力的でした。年齢や病気で「もう歌えない」とお断りになる方はいらっしゃいましたが、「宮沢には協力したくない」という人は皆無だった。それは自分にとっても、とても嬉しいことでした。沖縄の民謡界にとっても意義のある作品が残せたと思いますし、時間はかかりましたが、沖縄の音楽家のみなさんと同じ歩幅で付き合えるようになったのかなと。制作は大変でしたけどね。録音のときはお客さんのように演奏を聴かせてもらっただけなんですが、最終的に245曲・17枚組の大ボリュームになったので、ブックレットをまとめるのに1年以上かかってしまって……。この秋に改訂版が出るのですが、その制作費用をご寄付いただいた方にはワンセットご寄贈することにしています。興味のある方は、ぜひこの「唄方プロジェクト」にご協力ください。あと、実は録音と一緒に撮った映像もあるので、それをどう活用するかを考えています。


——この本自体もそうですが、研究家ではなく、音楽家として関わっているわけですね。

宮沢:そうですね。僕はシンガーソングライターなので、何をするにしてもその枠のなかでやりたいんです。沖縄の現状や行く末に関して思うことはあっても、メッセージが音楽より前に出てくるようなことは、自分の仕事ではない。そう考えたときに、沖縄の民謡が好きな自分のやるべきことが見えてきたんですよ。この素晴らしい音楽をずっと聴いていたいし、それが50年後、100年後にも残っていてほしいし、そんな平和な沖縄であってほしい。では逆算して自分は何をするべきか、それだけなんです。民謡をCDとして資料化するのもそうだし、三線の材料となるくるちの木が県内でほとんど枯渇している現状に対して、今のうちから植樹をしておいたりすることもそう。くるちの木が十分な大きさに育つには100年、200年かかるので、自分はそれを見ることは叶いませんが、子どもたちが沖縄の民謡を歌い、楽しむ未来を想像したいし、その種くらいはまいておきたい。そのために、音楽家として何ができるか、ということですね。

関連記事