後藤護の「マンガとゴシック」第4回
『アラベスク』に秘められたグロテスクなデーモンーー山岸凉子のバレエ・ゴシック【前篇】
バレエのデーモン
ヴォルィンスキーの言うアティチュード(病)とアラベスク(美)の関係をさらに敷衍して、バレエの美の世界において抑圧されたデーモンについてさらに考えてみたい。舞台上のバレリーナがみせる軽やかなダンスや笑顔は、常に過酷なレッスンによる身体酷使の賜物である。リンカーン・カースティンの言葉を借りればバレリーナは「ダンス・トレーニングにおける絶え間なき十字架」を背負っているのであり、そのイジめシゴかれるマゾヒスティックな受難ぶり(映画『ブラック・スワン』に顕著)はゴシック小説の「迫害される乙女(Damsel in Distress)」のモチーフに重なる。
『アラベスク』の主人公ノンナ・ペトロワも例外ではなく、ピルエット・アティチュードで10回も回れという師ユーリ・ミロノフの無茶ぶりに対して「あたしをいじめて よろこんでるの先生?」などと言うから殆どSMである。ちなみにバレエのフェッテという回転技は「鞭打ち」を意味する。回転する際にすばやく足を伸ばし曲げる動作が、空中で鞭を打つさまとイメージ的に重なることからこの名が付いた。鞭はマゾッホの小説やビアズレーの絵画など世紀末デカダンを席捲したモチーフであるが、フィリップ・ジュリアンは『世紀末の夢』(白水社)でその鞭のしなる蛇のような運動を「黒いアラベスク」と名付けた。
とまれ、バレエはこうした美を名目とした規律/折檻(ディシプリン)によって可憐なバレリーナを鞭打ち、悪魔祓いをしているのである。が、その皮の下一枚で蠢くデーモンの存在が重要であると渡辺鴻がつまびらかにしている。
「バレエは、そのきびしい修練とテクニックの混淆をきらう戒律性のために、しばしばその規範(カノン)は公教要理(カテヒズム)と呼ばれ、バレエそのものはカトリシズムにたとえられる。スコラ哲学とゴシック建築によって象徴される中世のカトリシズムが、その公理を形成し守護するために、異端とのあいだにどのようにはげしい戦いをつづけたかを想起してみるといい。——異教とか異端とかは、公理自体の中に、自己自身の中に、否定されたモメントとして内在しているものである。そして知性と抽象は、それが征服し否定し地下に封じ込んだ存在に着目することによって、はじめてその意味を知ることができるのだ。」(ゲルハルト・ツァハリアス『バレエ——形式と象徴』(美術出版社、1965年)、164ページ)
いわばバレリーナの身体とはカトリシズム(規律)と異端(カオス)が絶え間なくせめぎ合う戦場であり、カースティンが言った背負うべき「十字架」とはこの相克である——美の黄金比を示すゴシック大聖堂が、常に醜悪なガーゴイルとの緊張関係から成り立っているのと似ている。さて、このバレエのデーモンを容赦なく噴出させたのが、『アラベスク』と並んで山岸バレエ・マンガでは双璧をなす『舞姫 テレプシコーラ』である。が、ちょっと長くなり過ぎたので、次回に持ち越しだ。