これは物語ではなく神話であるーー宮台真司が『進撃の巨人』を称賛する理由

 稀代の傑作『進撃の巨人』は人類に何を問いかけるのかーー2021年4月に約12年に及ぶ連載に終止符を打った漫画『進撃の巨人』を、8人の論者が独自の視点から読み解いた本格評論集『進撃の巨人という神話』が3月4日、株式会社blueprintより刊行される。

 これに先立ち、リアルサウンドブックでは本書から一部を抜粋してお届けする。以前から『進撃の巨人』を絶賛し、「物語ではなく神話である」と語る社会学者・宮台真司は、同作をいかに分析し、何を論じるのかーー。(編集部)

トートロジーを超える日本的作品

 『進撃の巨人』は日本的な表現伝統の上にある。『鬼滅の刃』(吾峠呼世晴)、『ベルセルク』(三浦建太郎)、『MONSTER』(浦沢直樹)などの優れた漫画には、僕がアメリカでレクチャーするときに「オフビート・フィーリング(ビートの裏取り)」として説明する日本的な伝統が、貫徹している。善は善、悪は悪というトートロジーを超えるのである。

 人ではないもの──『鬼滅』の鬼や『進撃』の巨人──が、直ちに悪ではなく、実は善である可能性が、屈折した形で表現されている。「鬼の目にも涙」とも言うが、善は善、悪は悪というトートロジーを超えるのが日本の表現伝統なのだ。欧米の「ピカレスク」の伝統に近い。ちなみに海外の日本コンテンツ愛好家にはピカレスクが好きな人が多い。

 自分は正義だと主張する者たちが溢れる。単純な図式による道徳的な釣りは、誰もが乗れそうだ。だから鬱屈した者が正義を騙って悪を叩く。それがさもしいのは、正しさをめぐる社会問題ならぬ、当人らの不安の埋め合わせという人格問題だからだ。社会システムと心理システムの問題を混同しがちな昨今を、『進撃の巨人』は前提として踏まえている。

 主人公エレン・イェーガーは何が真実なのかに常に向かい合い、真実に「開かれて」いきつつ、自国=エルディア国の正義へと「閉ざされて」いく。この両義性が、昨今の「ウヨ豚」や「糞リベ」みたいなクズ(言葉の自動機械・法の奴隷・損得マシーン)とは違う。法外に「開かれて」いるが、法外の掟の内に「閉ざされて」いる。そこに悲劇がある。

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