『大怪獣のあとしまつ』ノベライズ版、映画と一味違った魅力とは? 散りばめられた“笑い”の効果
巨大怪獣が死んだ後の処理をめぐるSF映画「大怪獣のあとしまつ」。2月に全国公開されたが、それに先立ってノベライズ版『大怪獣のあとしまつ 映画ノベライズ』(著者橘もも氏、講談社)が刊行された。怪獣の襲来や戦闘を描く従来の特撮作品とは違った本作の魅力とは何なのだろうか。映画批評が専門のライター・若林良が「笑い」を観点にレビューする。(編集部)
『シン・ゴジラ』の後の物語
まずは少し時計の針を戻し、近年の代表的な怪獣映画の話から入ろう。
2016年に公開された『シン・ゴジラ』では、ゴジラは完全には倒されずにラストを迎える。日米軍が協力し、爆撃攻撃を織り交ぜながら大量の血液凝固剤をゴジラの体内に流し込むことで、人類はひとまず、ゴジラを凍結させることに成功する。しかし、それはあくまでも「一時停止」の状態であり、ゴジラが活動を再開する可能性は残されている。有事の際の対策として大規模な熱核攻撃がスタンバイされているものの、それが破滅を防ぐかどうかはわからない。そして、ゴジラ復活の可能性は決して低くないことを示唆する形で、映画『シン・ゴジラ』は幕を閉じる。
他人の心情を勝手に代弁するような愚行は差し控えるべきだろうが、少なくとも『シン・ゴジラ』の世界の住人たちが、ゴジラの完全な生命活動停止を切望しているであろうことは想像に難くはない。しかし、ではゴジラのような巨大な敵が完全に死ねば、果たしてそれで終わりなのか。『大怪獣のあとしまつ』は、怪獣の「死」以後にフォーカスし、これまでの多くの怪獣映画の「描かれなかった結末」を補うという点に、その大きな特色がある。そして、『大怪獣のあとしまつ 映画ノベライズ』は映画の原作ではなく、映画をノベライズした、すなわち映画から別の世界へのさらなる鉱脈をもとめた一冊となっている。
(以下で言及するのは映画ではなく、このノベライズバージョンの内容になる)
怪獣は食べられないのか?
閑話休題。そもそも、怪獣による襲撃が日常であった世界では、どのようにその死体は処理されていたのだろうか。
スペシウム光線(的な必殺技)を浴び、体が爆破されて四散するなどであれば「野良犬が食べた」「カラスが食べた」などの逃げ道もあるかもしれないが、たとえば昭和のウルトラマンシリーズであれば、多くの怪獣は体の形状を保ったままで死を迎える。彼らの生命活動停止を受け、ウルトラマンは後のことは任せた、と言わんばかりにシュワッチ、と空に飛び立っていく。
しかし、残された人類は、死体の処理についても考えなくてはならない。SF作品を科学的に検証するシリーズ『空想科学読本』(柳田理科雄著)の第2巻では、怪獣死体処理問題についても触れられている。そこではキングギドラの死体が例に挙げられるが、宇宙空間に捨てるためにはおよそ300兆円の予算がかかり、その工面のために消費税は86%に跳ね上げられるなど、国民に多大な負担が強いられるであろうことが語られる。
それ以外の方法はないのか。柳田の指摘では、未知の細菌がいるかもしれないので「焼くのはNG」ということで、南極などの人里離れた地底に埋めることにも難色が示されている。さきほど野良犬やカラスのエサになる可能性に言及したが、そうした前提の上では、怪獣を食用にして死体の有効処理をしようなどという発想は当然御法度ではあるだろう。
筆者自身は、昨年映画『三大怪獣グルメ』(2020)を鑑賞したこと、また「エビのような味でとてもおいしい」と評判の怪獣ツインテール(『帰ってきたウルトラマン』ほかに登場)の存在が念頭にあったこともあり、まずは「食べりゃいいじゃん」という発想が浮かんだ。しかし、それは当然素人の考え。『大怪獣のあとしまつ』では、冗談でもそのような発想は出てこない。
そもそも、大怪獣の描写を見ても、食欲はあまり湧いてはこない。本作の開始時点では、すでに大怪獣の死から10日が経過しており、腐敗による発酵から体温の上昇も認められている。体の隆起部分がはじけ、そこから発生したガスのひどい臭いは、ガスに直撃した特務隊(政府直轄の特殊部隊)メンバーの髪に数日たってもまとわりついている。そのうえ、腐敗ガスは次第に怪獣の体内に溜まっていき、死体の大爆発によるリスクもまた高まっていく。さらには「私情と腐った死体は犬も食べません」なんてセリフまで出てくるのだから、《怪獣食糧案=絶対NG》と、筆者が抱くような素人考えを喝破する念の入れ方を感じさせる。
滑稽な笑い
では、怪獣の死体はどのようにすればいいのか。本書で出てくる案としては、まずは冷却し、海に流すこと。しかし、怪獣の死体は膨張が止まらず、少なからぬ国土がその腐敗臭に覆われるまでの時間はきわめて限られている。そこでスピード勝負の必要があり、ダムを破壊し、その水流の力で海へと押し流すという案が浮上する。
果たしてどうなるか。これ以上の詳細の記述は控えるが、本書の特色を改めて述べよう。内容そのものは国家の存亡がかかったシリアスなものに違いないが、作品の根底には滑稽味を含んだ「笑い」がある。
たとえば、怪獣はその死後、政府によって正式に名前が付けられている。〈希望〉と。
……は?おかしくね。だってさ、その〈希望〉によって数えきれないほどの人が亡くなってるんだよ。これって「希望は誰かの犠牲の上にしか成り立たない」みたいな教訓でも説きたいの?あと、希望ってすでに死んでるよね?あとは腐ってくだけじゃん。希望が腐っていいの?みたいなツッコミが部外者の筆者からでさえ次々と出てきたのだから、『大怪獣のあとしまつ』の世界の住人の困惑は、まさに察するに余りある。(なお、一応作中では死体の標本化への意気込みが語られるが、成功の可能性は限りなく低いものであるらしい)
しかし、名づけられた以上、その名前は使わざるを得ない。「〈希望〉の死体は海まで押し流されていく」とか、「〈希望〉、あんたには出ていってもらうからね」とか。「〈希望〉を沈めるなんて縁起が悪い」とか、「〈希望〉という名の、人類の絶望」なんて言葉も出てくるが、そうしたまっとうな指摘、また文学的な表現も、なぜこのような反応を予測できないんだ、というツッコミがのどから出そうになることで、より滑稽な笑いが浮かんでくる。
笑いはこれだけにはとどまらない。怪獣の死体が発する臭いの強烈さについては先ほど言及した通りだが、ではその臭いはどのようなものなのか。大臣たちのなかで臭いの内実をめぐって「ウンコかゲロか」論争が繰り広げられる。結果的には、「銀杏の臭い」ということで落ち着き、マスコミに公表されるが、大の大人が、それも日本の中枢を担う閣僚たちがこうした議論に躍起になっているのである。「神は細部に宿る」ということわざもあるけどさ、まず腐りかけている全体をどうにかするのが先決だろ、と頭の中のツッコミはさらに加速していく。
その他にも、怪獣の死体の上に自慢げに仁王立ちした環境大臣が、足を滑らせて肉に頭から突き刺さったり、国防大臣が「ブロッコリーは好きだがカリフラワーは嫌い」「土産物のマリモは手で丸めてるって知ってて買うようなもん」などと迷言を連発したり。閣僚たちの行動はツッコミどころが満載で、その都度、読者の顔は苦笑いを要請されることになる。