『明け方の若者たち』のトリミングされた“記憶”のエモさを探る 映画×原作小説レビュー

 人気ウェブライターで小説家のカツセマサヒコ氏原作の映画『明け方の若者たち』が、昨年末に全国公開された。2010年代初期の明大前や高円寺で青春時代を過ごした「僕」の儚い夢のような恋愛譚が描かれている。映画版は気鋭の松本花奈監督に加えて、俳優に北村匠海氏、黒島結菜氏と、新世代の豪華面子で注目を集める。映画と原作の魅力、そしてそのエモさの真髄は何なのかーー。「若者たち」と同世代のライター・生湯葉シホ氏に、レビュー/エッセイを寄稿してもらった。(編集部)

夏が特別な季節だった理由

 むかし、JUDY AND MARYの「ひとつだけ」を夏以外の季節に聴くことができなかった。理由は単純で、当時付き合っていた恋人に「夏がくるまで聴いちゃいけないよ」と口酸っぱく言われつづけていたからだ。私が10代の頃にはもうJUDY AND MARYは解散してしまっていて、自分にとっては正直、そこまで特別な思い入れのあるバンドではなかった。けれど、「夏がくるまで聴いちゃいけない」という宣言のたったひとつが、その曲やJUDY AND MARY、そして夏という季節までをも特別なものにしていた。

 意味わかんないな、と自分でも書いていて思う。だいたい、曲を聴くタイミングをどうして人に指定されなければいけないのか。“夏を待ってる”曲だからというのが恋人なりの理由だったような気がするのだけれど、それならどうして「夏を待つセイルのように」や「secret base~君がくれたもの~」はよくて、「ひとつだけ」はだめなのか。その根拠を、当時の会話のログのなかから見つけ出そうとすればするほど、狭くいびつなかたちの洞穴に入っていくような感覚になる。歩みを進めるごとに周囲の音が聞こえなくなり、目に見える範囲の空間の音だけが反響しはじめ、発した言葉から意味が消えていく。気づけば、体は記憶そのものになっている。

「理想のタイプ」はこうしてつくられる

(C)カツセマサヒコ・幻冬舎/「明け方の若者たち」製作委員会

 2020年に刊行された『明け方の若者たち』(カツセマサヒコ著、幻冬舎)をはじめて読んだとき、とりわけ印象に残ったのがそんな“記憶”の描き方だった。主人公の「僕」は就活を早々に終えた大学4年生の春、退屈な飲み会で出会った「彼女」に惹かれ、数年の時間を共にすることとなる。物語は彼女と過ごした時間、そして「何者か」になりたいという夢と自分の凡庸さとのギャップに思い悩んでいた若い時代を振り返る「僕」の回想として進むのだけれど、「僕」の記憶のなかに登場する彼女の姿は常に、これでもかというほどの光量で輝いている。

“短くてもふわりと弧を描くやわらかい髪、オーバーサイズを好む洋服のセンス、笑ったときに見える八重歯、メガネをかけるとずりおちる低い鼻。”

“現実的に生きるくせに、テレビや雑誌の占いをきちんと信じること、生き方をそのまま表したような控えめなくしゃみ、BCG注射の薄い跡が残る二の腕、太ももの内側にあるホクロ。突然会うことになると、決まって下着がダサいこと。”

(『明け方の若者たち』より)

 「僕」はそんなふうに彼女の特徴を羅列した上で、恋人のことを“オーダーメイドかと錯覚するほどの存在”と呼ぶ。言うまでもないけれど、これは完全に時系列の逆転した評価だ。実際には、(外見的な特徴は置いておくとして)「僕」はくしゃみの音が小さい人や占いを信じる人、下着のダサい人がタイプなのではなく、偶然好きになった彼女がそういう人で、しかも彼女がいまは自分の隣にいないから、思い出せる要素の手当たりしだいが結晶化して“理想”になったのだろう。特別な存在というのは、いつもそうやってつくられる。

(C)カツセマサヒコ・幻冬舎/「明け方の若者たち」製作委員会

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