解剖学者・養老孟司が語る、コロナ禍の世界の壁「僕がやっていた解剖こそ不要不急の典型」

 『バカの壁』『死の壁』『「自分」の壁』(いずれも新潮社)などの著書で知られる解剖学者・養老孟司。84歳。人間には自分ですら気づいていない「壁」があるとして、考えや理性であらゆるものをコントロールしようとする社会に疑問を呈してきた。 

 そんな養老のコロナ禍のさなかの思いをまとめた本が『ヒトの壁』だ。飛沫を防ぐためにと、あちこちにアクリル板の「壁」が設けられたこの2年を、養老はどう見ていたのだろうか。 

 また、2020年に亡くなった養老の愛猫「まる」(スコティッシュ・フォールドのオス/享年18)には、いまどんな思いを抱いているのだろうか。話を聞いた。(土井大輔) 

ヒトは頭で考える「理屈」で日常を変えてきた


ーー『ヒトの壁』を読んで驚いたのが、「この年齢までなんだか『生きにくい、所を得ない』と思ってきた」という部分です。つまり先生は、居心地の悪さのようなものをずっと感じて生きてきたということですか。 

養老孟司(以下、養老):そうです。そしてそれは収まらないでしょう。人間は頭の中で考えたこと、理屈で日常を変えてきました。しかし、それはあくまでも頭の理屈だけであって、体の都合は別です。理屈だけを先行させたら社会にも個人にもいろんなストレスがかかります。それがたとえば、西南戦争(1877年)でしょう。理屈をもとに急激に社会を変えたのが明治維新です。しかしそれでたまったストレスが西郷隆盛を動かし、西南戦争というかたちで出た。 

 日本は敗戦によってやはり理屈で大きく変わりました。当然、大きなストレスがあったはずですが、誰も腕力には訴えていないという意味では、戦後の無理はまだ大きなかたちとしては出ていないですね。 

 新型コロナウィルスが広がった要因の一つはグローバリゼーションです。世界中の人の行き来がかつてとは比べ物にならないくらい頻繁になったことが、急速な感染拡大を招いた、ということです。そのためグローバリゼーション批判が表面に出たのですが、私は「いまさら何を言ってるんだ」と思いましたね。自然科学の研究者になろうと思ったら、考え方も価値観もすべて欧米的なものにしなくてはいけない。論文にいたっては英語で書かなければ認められない。頭のいい人たちはちゃんとそれにしたがって、しかも無理を感じていない。一方でそれは日々の思考とはズレていて、「それはおかしいんじゃないか」と若い頃から思っていました。これも居心地の悪さの一つです。 

ーー論文なんかはまさに「理屈」のかたまりですね。 

養老:みなさん、理屈通りで生きていられるの? という話です。本当に科学者になりたかったら英語圏に住んだ方がいいということになりますよ。日本と比べると彼らははるかに日常生活の論理と学問上の論理を一致させているから無理が生じにくい。でも日本は、そこを一致させないままでやってきたわけです。 


ーーコロナ禍のなかでは「不要不急」という言葉が使われました。先生はこの言葉をどのように受けとめられましたか。 

養老:むしろ、呑気なことを言っているように聞こえました。「不要」とか「不急」といったことの中身をよく考えたことがないから言えることでしょう。本でも書いた通りで、僕がやっていた解剖こそ不要不急の典型なんですよ。急いでも急がなくても相手はもう死んでいるんでいるんですから。 

 同じように医学部を出た医者といっても、生きている患者さんを診る行為とコントラストがすごくはっきりしていますよね。(助手や教授として)学校から給料をもらっているあいだも、「死んだ人をバラして、なんで給料をもらっているんだろう」としみじみ思っていましたね。他のみなさんは社会に対して信頼を得ていると思って働いているわけですが、僕にはそういう実感がなかったんです。「改めて考えてみれば、自分は何の役に立っているだろう」と。 

ーー音楽や演劇が「不要不急だ」と言われたとき、関係者は「いや、そうではないんだ」と訴えていました。 

養老:気持ちはわかりますが、それは言っても無駄だと思いましたね。極端なケースで言えば、たとえば戦争中には「それどころじゃないだろう」という感情が他のすべてに先行していました。戦争中は口紅をひいてスカートを履いたら「非国民」でした。政府がそう言っているわけではなく、警察や憲兵が言うわけでもない。一般市民がそう言っていたんです。 

 僕は子供でしたが、よく覚えています。戦争の末期、口紅をひいてスカートを履いて、母親の従姉妹が田舎から出てきたんですね。従姉妹が家に着いたとき、「よくここまで無事に来られたね!」とみんな驚いていましたよ。まさに不要不急でしたからね、スカートや口紅というものは。 

ーーそれでも不要不急と思われるものを養老さんが追究してきたのはなぜですか。 

養老:そこに意図があったわけではないんですよ。昆虫を趣味で集めていますけど、虫なんか、何の役にも立ちませんからね。 強いて言えば、社会的なものを素直に受け入れるか、自然に存在するものを素直に受け入れるかという違いがあるかもしれませんね。 

ーーいまの若い人たちには「間違ったことをしたくない」という傾向があるように思います。 

養老:若い人に限らず、そういう判断ができると思っているんでしょうね。「なぜ自殺しちゃいけないんですか」と聞いてくる人がいる。その裏には「言葉で論理的に説明ができるはずだ」という前提があります。すべてが「ああすれば、こうなる」という調子の論理で説明がつくと思い込んでいるんです。日本も「始めに言葉ありき」の聖書の世界になったんですよ。聖書は言葉で書かれているから、そこに論理矛盾はないわけです。だけど、日本はそれでいいのか。本当にそうでしょうか。生まれた時から口がきけたわけではなく、言葉以前の無意識的なものや感覚があるに違いないはずです。日本も欧米式の「理性的」な社会になってきたんですね。その行き着く先がAIです。すべてを理性でコントロールしようとする。できると思い込んでいる。 

ーーそれは先生にとって、面白味のない世界ですか。 

養老:面白くないでしょう。何が起こるかわからないという意外性が人生を面白くするという面があるでしょう。もちろん、想定外の悪いこと、悲しいことも起きます。台風があったり、地震があったり。日本人は本来、そういう状況のなかで生きてきたわけです。「何もかも意識的にできる」という前提は、非常に危ないものです。僕はよく「人がノイズになった」と言うんです。システムのなかでデータ化されないものは、ノイズとして扱われます。その意味で生きている人間はといえば、完全にシステム化されているわけではない。だからシステムに入らない部分はノイズになります。いまは、AIの範疇を拡大させることでヒトがノイズになる社会を一生懸命作っているんです。 

ーーでは、AIと共存するにはどのような視点が必要になるのでしょうか。 

養老:どう共存するかをもっと議論すべきではないでしょうかね。自分を拡張するなかで臨場感のあるものが作れるという新聞記事を読んで驚きました(読売新聞「仮想空間で拡張する『私』…メタバース、痛みも再現」2021年12月6日)。「自分を拡張する」と言うにはまず、「自分」というものが「ある」という暗黙の前提があります。ないものが拡張するわけではないんだから。そんな風に考えていくと新聞を読んでいてもしょっちゅう引っかかるんです。AIや新しい技術を否定するわけではないんですが、だからストレスが多い。そうなると虫がよくて、ネコを見ていたくなるんですね。 

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