『鬼滅の刃』無限列車編で光る、吾峠呼世晴ならではの構成力 アニメ放送前に見所を徹底考察

※ 本稿には『鬼滅の刃』(吾峠呼世晴)の内容について触れている箇所がございます。原作を未読の方はご注意ください。(筆者)

 10月10日(日)から、フジテレビ系列にて、「テレビアニメ『鬼滅の刃』無限列車編」の放送が始まる。

 同作は、大ヒットを記録した「劇場版『鬼滅の刃』無限列車編」を全7話のテレビアニメシリーズとして再構成したものだが、第1話では、主要キャラのひとりである煉󠄁獄杏寿郎が、戦いの場となる「無限列車」へ向かうまでのエピソードが新たに描かれるようだ(また、第2話以降についても、要所要所に新作映像が追加されるとのこと)。

 そこで本稿では、この「無限列車編」の原作――すなわち、『鬼滅の刃』(吾峠呼世晴)の第7巻から第8巻について、あらためて考えてみたい。具体的な話数でいえば、それは第54話「こんばんは煉󠄁獄さん」から第66話「黎明に散る」までということになるが、物語が完結したいま、『鬼滅の刃』全23巻を再読してみれば、この「無限列車編」こそが、作品全体のいわば「キモ」になっているということがよくわかるだろう。

 そう――「無限列車編」以前の主人公・竈門炭治郎は、「鬼にされた妹を人間に戻す」という明確な目的はあるものの、いまだ成長の途上にあり、「鬼殺隊」という鬼狩りの組織において何をなすべきか、やや曖昧な状態にあった。ところが「無限列車編」以後の彼は、ただの“妹思いの兄”ではなく、ひとりの“剣士”として、立派に成長しているのだ。

 それはもちろん、「炎柱」・煉󠄁獄杏寿郎が、限りある一生を懸命に生きることの尊さと、「強き者は弱き者を助けよ」という亡き母の教えを、命がけで炭治郎に継承したからに他ならない。

吾峠呼世晴ならではの独特な構成力

 それにしても、吾峠呼世晴のセンスが冴え渡っているのは、この「無限列車編」のハコ書き(プロット)というか、全体の構成の巧(うま)さだろう。というのは、おそらく並みの漫画家なら、第54話から第62話までの眠り鬼「魘夢」との戦いで、いったんひとつの章を区切るはずだからである。実際、その9話分は、起承転結もとてもよくできているのだ(具体的にいえば、第54話が【起】、第55話から第59話までが【承】、第60話・第61話が【転】、第62話が【結】)。

 だが、周知のとおり、第62話で魘夢が死んでも「無限列車編」は終わらない。それどころか、畳み掛けるようにさらなる強敵・猗窩座がどこからともなく現われ、疲弊していた主人公たちを追いつめるのだ(つまり、第62話の【結】の後に、再び【転】を持ってきているのである)。

 この、作者が物語を動かす独特なテンポは本当にすばらしい。

 たとえば、仮に第62話で「無限列車編」が終わっていたとしたら、それは単なる鬼狩りの1エピソードにしかならなかっただろう。だが、そうはならなかったのは、やはり魘夢との戦いの後で、間髪入れずに猗窩座と煉󠄁獄の壮絶な死闘が描かれたからだろう。

 そう――あくまでも煉󠄁獄杏寿郎という漢(おとこ)は、たった一晩のあいだに、短くも激烈な生きざまを後輩の炭治郎に見せつける必要があり、また、その炭治郎がさらに成長するためには、目の前で行われている煉󠄁獄と猗窩座の戦いを、なすすべもなく見続ける必要があったのだ(炭治郎は重傷を負っており、ほとんど動くことができない)。

 そして、この時に味わった“悔しさ”が、やがて竈門炭治郎という少年を、ひとまわりもふたまわりも大きな剣士へと成長させるのである(煉󠄁獄は猗窩座の一撃が致命傷となり、散華するが、のちに、「心を燃やせ」という彼の魂を受け継いだ炭治郎が、「水柱」の冨岡義勇とともに猗窩座を討つ)。

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