『寄生獣』はなぜ現代によみがえったのか? 時代を越えた“問い”を考察

気候変動問題に揺れる今だからこそ読む価値がある

岩明均/太田モアレ『寄生獣リバーシ(8)』(講談社)

 広川の選挙ポスターには「環境―まず優先させる街へ」というキャッチコピーが書かれている。地球の環境を考えた時に、人類は明らかにそれを汚す存在である。「地球上のだれからふと思ったのだ。生物(みんな)の未来を守らねばと」という、冒頭の言葉を作中で語るのも広川だ。気候変動が深刻化し、世界中で自然災害が多発する現在、広川の言葉は一層切実なものとして受け止める必要があるのかもしれない。

 しかし、だからといって殺人を正当化することはできるだろうか。そもそも「みんな」の範囲をどこまで広げれば、適正なバランスが保たれるのか、一介の人間にわかるものだろうか。

 『寄生獣』本編の終盤でミギーは進一に向かって「わたしは恥ずかしげもなく『地球のために』という人間がきらいだ」と語る。それは、結局のところ、そう考える人間の満足でしかないのではないかということだ。「他の生き物を守るのは人間自身がさびしいからだ。環境を守るのは人間自身が滅びたくないからだ。人間の心には人間個人の満足があるだけなんだ」と進一は悟るようになる。

 でも、それでいいし、それが人間の全てなのだ。というか、どれだけ「みんな」の範囲を広げたとしても全ては上記のように人間自身のためでしかないのだと『寄生獣』という作品は描いている。

 そう考えると『リバーシ』の主人公タツキが、あくまで人間的な、個人的な動機で仇討ちを考えていることも、「それでいい」のだということになる。たとえ、それは間違っていたとしても、それを決められるのは自分だけだ。結局のところ、人間は人間の基準で生きる以外の方法がない。今、環境問題という非常に大きな問題に直面しているからこそ、『寄生獣』が投げかけた問いを忘れない方がいいだろう。その意味で、今連載中である『寄生獣リバーシ』は、そのことを思い出すために大いに役立つはずだ。

■杉本穂高
神奈川県厚木市のミニシアター「アミューあつぎ映画.comシネマ」の元支配人。ブログ:「Film Goes With Net」書いてます。他ハフィントン・ポストなどでも映画評を執筆中。

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