天竺=インドではなかった? 研究者・石崎貴比古が明かす、日本人の天竺観の変化

天竺認識の変化は、日本人の自己認識の劇的な変化を意味する

――近代に入って、天竺=インデアにヨーロッパ人が足を踏み入れ、あるいはその前からムガル帝国によって大部分が占領されていたという情報が日本に広まることによって、人々の世界認識はどう変わったと捉えればいいでしょうか。

石崎:江戸時代には一般の人にも歌舞伎や浄瑠璃、黄表紙の題材――つまり物語の舞台として「天竺」は親しまれていました。仏教のお坊さんたちもひとりも実際には行ったことはないのに「お釈迦様が天竺で云々」と物語を通じて誇大に語っていた。ですから仏教の祖国、聖地であり、不思議なものが生まれているファンタジックな国だと思われていたわけです。

 それが江戸時代後期には蘭学の知識が蓄積されると、天竺とインドが近づいていきます。ムガル帝国が滅ぼされ、われわれがヨーロッパ人と呼ぶ人々にその土地が占領されてしまったのだと知ると、到達不可能だったはずの天竺がリアルな場所として立ち現れてきます。

「仏教系世界図」と呼ばれる近世の地図では世界のほとんどが天竺として描かれ、そのちょっと上に震旦があり、さらにそのはじっこに本朝があると思われていました。けれども近代になると現代のものに近い世界地図を一般の人も目にするようになり、三国世界観は完全に崩壊します。世界は三つでもないし、天竺は震旦より大きな国でもなかったのか、と。

――天動説が間違っていて地動説が正しいとわかった、くらいの衝撃かもしれないですね。

石崎:私は東京外国語大学出身なのですが、外語大に入るとほぼ必読になる文献がエドワード・サイードの『オリエンタリズム』とベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』です。ひとことでこの2冊が言うことを表せば「自国認識はイメージと関わっている」――つまり日本人が「日本」という国、「日本人」という自己認識を形成するにあたっては他者なしではありえない。「われわれ」と「彼ら」があるからこそ「われわれ」がどんな存在なのかを規定できる、ということです。近世までの日本に住む人たちは自画像を描く際に、現実に存在する巨大な隣国・震旦と、想像上の国・天竺を引き合いに自らを位置づけていた。それが近代にはガラガラと崩れた。

私たちは「よくわからないもの」に対峙したとき、どう振る舞うのか?

――震旦・天竺とではなく欧米列強や清と比較して自分たちを考えるようになった、と。そう考えると非常に大きな変化ですね。明治時代に浄土真宗の島地黙雷が岩倉使節団に同行してインドで釈尊の仏跡を訪れていますが、石崎さんの天竺認識史的にはこの行為はどう捉えられますか。

石崎:ついに仏教関係者が天竺に到達できるようになった、そして仏教を信奉する人たちは近代に入っても天竺に対する想いを失わなかった、と言えます。たとえそれが古代以来イメージしていたものとは違っていたとしても、かつてお釈迦様たちが瞑想し、修行し、教えを説いた場所として、仏教学的な意味合いにおいても「天竺」と「インド」が合致し、それを疑わなくなった時代が始まりました。

――なるほど。手の届かない「行けない聖地」から、具体的に存在する「行ける聖地」になったと。天竺認識の変遷を知ることで、今を生きる私たちにどんな示唆があると思いますか。

石崎:多くの科学者は「サイエンスがこの先いくら発達したとしても、人間にはまだわからない部分が残り続ける」と思っています。そのわからないもの、知らないものと対峙したときに、人類はどう振る舞うのか。今回の新型コロナウイルスによってもそのことが問われたわけですが、天竺は日本人にとっては長いあいだ想像上の聖地として捉えられてきたものです。天竺認識の歴史は、言ってみれば、われわれが「よく知らないけれどもありがたい」と思うものに対して何を期待して、どう振る舞い、その幻想がいかに霧散していったかという「未知に対する精神史」と捉えられます。世の中から未知のものがなくならない以上、似たような振る舞いはおそらく繰り返される。だからこそ現代の私たちも顧みる意味があるのかな、と思っています。

■書籍情報
『日本における天竺認識の歴史的考察』
石﨑貴比古 著
発売中
価格:5,200円+税
発行:三元社

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