魔女狩りは“わからない”ことへの恐怖から行われるーー漫画『魔女をまもる。』が問うもの

〈ヨーハン 理解できないものから 目を背けるなよ〉〈人は見えないから恐れるのだ 知らないから怖いのだ たとえそれが悪魔でも――知る事をためらうな〉。

 中世ヨーロッパの魔女狩りを描いた槇えびしの漫画『魔女をまもる。』のセリフが、読み返すたびに突き刺さる。

 “そういうこと”にしてしまうのはラク

『魔女をまもる。(中)』

 “わからない”というのは、恐怖だ。コロナ禍で人々を不安にさえ、おそれさせているのは「万全に対策していたつもりでも、いつ誰がどこで感染するかわからない」「外出できない、人に会えないという状況がいつまで続くかわからない」「けっきょく、何が正しいのか何もわからない」ということだろう。答えの出ないことを考え続けなくてはならない状況に耐えられないから、自分がいちばんホッとできる答えを自分で決めてしまう。これ以上揺るがされたくないから、自分と反対意見をもつ人たちに不満を抱き、怒りをぶつける。その答えがどういう方向性のものであれ、“そういうことだから”と終わりにしてしまいたい気持ちは痛いほどわかるから、賛同や共感はできなくても、否定することができない。

 “そういうこと”にしてしまうのは、とてもラクだ。たとえば家事は女性が担うもの、男性は奢るもの、女性はヒステリックになるものだし、男性には浮気する本能がある、といった男女間の決めつけも、最初からそうと決まっているのだと断じてしまえば、よけいなことを考える前に諦めることができるし、話し合いの面倒を省略して物事を進めていくことができる。

 だがそこには確実に、抑圧が生まれる。“そういうこと”に当てはまらない異分子はコミュニティから排除されるし、信じた答えに添って慎ましく行動していても現実が好転しない場合、どこかにイレギュラーを起こしている存在がいるはずだと、むりやり探し出された異分子が糾弾される。それが、魔女狩りだ。

 『魔女をまもる。』の舞台は、16世紀の神聖ローマ帝国。医師のヨーハン・ヴァイヤーは、領主であり雇い主であるヴィルヘルム5世の命で、人狼に襲われたという少女の診察に訪れる。少女の父親は、人狼をつかまえようと必死だ。けれど探すのは狼ではなく、狼に姿を変える人間の男。娘が呪われる前に悪魔の手先を殺すのだと血相を変える父親が引きずりだしてきたのは、かつて娘と恋仲にあった町の男だった――。

 人狼は、魔女ではない。だが、疑心と恐怖、怒りから人ならざる存在に変えられて、裁いていいものとして扱われるという点では、同じである。

 ヨーハンは、母親を守るために魔女としてふるまい処刑されてしまった少女への後悔と贖罪から、魔女を救う方法を探して続けてきた青年だ。やがて彼は医師として、魔女と呼ばれる女たちの症状――妄言を口走ったり人が変わったようにヒステリーを起こしたりする――が、体液の分泌が乱れることによって起きるメランコリーではないかということに気がつく。

『魔女をまもる。(中)』

 十分に栄養がとれていたとは思えない当時、現代以上にホルモンバランスにふりまわされて、我を失う女性がいてもおかしくはない。作中に登場する老婆のように、家族を亡くした悲しみからせん妄に似た症状をみせる場合もあっただろう。知識のない状態で、突然の発症をまのあたりにすれば「悪魔でも憑いたのではないか」と怯えてもしかたない。“わからない”ことに戸惑いうこと、それ自体は決して悪ではない。でもだから、私たちはどんなにしんどくても“知ること”を諦めてはいけないし、“なぜそうなったのか”を考え続けなくてはならないのだと思う。魔女や悪魔の所業なのだと、わかりやすい結論に飛びつかないよう自分を戒め、無実の人々を守ろうとし続けたヨーハンのように。

 それは、自分と大切な人の身を守ることにもつながっていく。都合の悪いことを全部、魔女のせい。“そういうこと”にしてラクになるのは、たぶんほんの一瞬で、けっきょく何も解決しない現実に折り合いをつけるには、新たな魔女を生み出し続けるしかなくなってしまう。それは、いつなんどき自分も、誰かにとっての魔女にさせられるかわからない、ということだ。魔女としてとらえられた人々が、拷問の末、存在しない仲間を白状させられたように、身に覚えのない罪から逃れるために、自分も誰かのせいにしてしまう。そんな負のループを生み出さないためにも、安易に“そういうこと”と結論づけてはならないのだ。

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