藤田貴大『季節を告げる毳毳は夜が知った毛毛毛毛』は“上演”される小説だ リフレインが生み出す、文章の愉しさ

 この『綿毛のような』に関していえば、描かれているのはカップルの物語だけではない。ほかにも多くの人物たちが登場し、“節”ごとに足早に“主体=視点の持ち主”が変わっていく。すこし乱暴な言い方をすると、それはまるでいくつもの掌編小説をごちゃまぜにしたようなものだ。あるいは異なる物語の“コラージュ”ともいえるだろう。これが本作を難しい読み物としている点かもしれないが、これこそが本作の特色であり面白さである。そもそも本作に収められている作品は、それぞれに何か明確な答えが用意されているわけではない。演劇作品に唯一の解がないように、それは小説においても同じことだろう。

 先に記したように、演劇での藤田作品同様に、本作にも「リフレイン」が活きている。一見して脈絡のないように思える文章もこのリフレインによって、描かれている物語が同じ世界、、同じ時間軸で起きているものだと着地する。活字から立ち上がってくる5つの物語は、読者それぞれの脳内で異なるカタチで“上演”されることだろう。劇場の規模や作品のテーマにあわせ、つねに表現方法をアップデートさせる藤田作品らしい小説集なのである。

 本作の帯文には、各物語の印象的なセリフが引用されている。「こんな時代になるとはね」「わたし、こんな時代に生まれなければどんなによかったとおもう」「死ぬか、わたしが死ぬか、選べ」、“ーーもう何か月も外へでていない。”、「わからないことだらけだね」ーーこのコロナ禍に出版されたものとあって、示唆に富んだものが引かれている印象だ。これらが言葉と物語のリフレインによって、読者にはより印象づけられることにもなるだろう。

 そして藤田の文体は、長大なセンテンスで綴られる文体で知られる金井美恵子の小説をどこか思わせる。藤田作品は金井作品とは反対に、句点がとにかく多く、センテンスがきわめて短い。これは文章が持つ、その瞬間瞬間に感じられる、刹那的な効果を意図的に押し出しているもののように思える。これが金井作品のように、“文章を読むことの愉しさ”そのものを私たちに味わわせてくれることだろう。

■折田侑駿
1990年生まれ。文筆家。主な守備範囲は、映画、演劇、俳優、服飾、酒場など。最も好きな監督は増村保造。Twitter

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