葛西純自伝連載『狂猿』第14回 引退覚悟で挑んだ、伊東竜二との一騎討ち

試合当日の出来事

 この日は、試合前のこともよく覚えている。

 この頃は息子が保育園に通ってたんだけど、なぜか思う所あって、この日は保育園を休ませて、俺っちは息子を連れて近所の公園に行って二人で遊んだ。帰りに近くのスーパーに寄って、お寿司を2つ買って、家で息子と食べてると、嫁さんが仕事から帰ってきた。俺っちと嫁さんと、あと、この試合を見ておきたいっていう知り合いの夫婦でウチの車に乗って、後楽園ホールに向かった。

 嫁さんには、今日の試合で辞めるなんてハッキリ言ってなかったんだけど、なんとなく感づいているようだった。勝っても負けても試合後に「今日で引退する」と言う。そう決めると、不思議と緊張しなかった。いままでで一番緊張しなかった試合かもしれない。とにかく自分が今持ってるものを出し切ろう。それだけを考えていた。

 会場に着いて、控室に向かって通路を歩いてたら、たまたま伊東とすれ違った。もちろん言葉は交わさなかったけど、もう見ただけで伊東がガチガチに緊張してるのがわかった。普段からノンビリしてる伊東が、今日は緊張するんだなって、他人事のようにみてた。

 控室で身支度を整えたら、俺っちたちの前に試合してた佐々木貴が戻ってきた。そこで貴に「今日のお客さんどう?」って聞いたら「まぁまぁ入ってるよ」って軽い感じで応えた。そうか、それならいつもの大日本プロレスと同じくらいの「入ってる」感じかなと思った。リングの準備が終わって、メインイベントの時間になった。俺っちの入場曲が流れてきて、息を整えて鉄扉を開けて、会場にパっと出たら、今まで感じたことのない歓声が聞こえてきた。目を凝らすと、見たことないくらいの数のお客さんがビッチリと席を埋めてた。「なんだよ貴、言ってること違うじゃん」って思いながらリングに向かった。

 いま思えば、貴は俺っちに気を使って軽めに言って、変にプレッシャーを与えないようにしてくれたのかもしれない。コールを受けているときから、とにかくお客さんからの歓声がすごくて、ものすごい盛り上がりだった、こうなったらとことんやってやろう。

 試合が始まると、歓声はより大きくなった。動けば沸くし、技を受けても湧く。とにかく楽しいし、気持ちいい。伊東も楽しそうで、思わず笑みがこぼれている。試合しながら、今日でプロレスを辞めるのはいいけど、これがなくなったら俺っちは何を励みに生きていけばいいのかなって思い始めた。

 場外戦になって、伊東を机にガムテープで縛り付けて、バルコニーに向かって階段を上がってる間も頭の中では「俺っちの人生で、こんなに楽しいことないな。これ辞めちゃったら俺どうなっちゃうんだろう」とか、そんな想いが回る。そのままの勢いで6メートル下の伊東めがけてダイブした。この高さから飛んだら、ヒザをやって動けなくなる可能性もあったけど、そんなことまったく考えてなかった。

 だんだん観客の声も気にならなくなるくらい試合が楽しくて、気がついたら試合時間は残りわずか。なんども肩をあげる伊東に、最後は無我夢中で有刺鉄線サボテンのリバースタイガードライバーを突き刺してカウント3。残り時間15秒、記録は「29分45秒 体固め」で勝った。

 試合後のマイクで「ハッキリいって年内引退考えてたよ。でも両ヒザぶっ壊れるまでやってやるよ。ビコーズなぜなら、オメエらみたいなキ○ガイがいるからだ!」。

   控室でも記者相手に言葉があふれた。

「傍から見れば、こんだけ血流してこんだけキツいことして、大変ですねって思うかもしんねぇよ。でもよ、オマエら常人には理解できねぇかもしんねぇけどよ、あのリング、あのデスマッチのリングこそが俺っちの生きる糧なんだよ。俺っちが唯一輝ける場所なんだよ」ーー。

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