『日本沈没2020』は何を描いたのか? 賛否呼んだ同作の狙いを、原作との比較から考察

 小松左京はもともと、国土を失ったら日本人はどうなるかと発想し『日本沈没』を書いたのだった。戦争で国土が分割されたり、領土を失った民族は世界各地に存在する。14歳で母国が敗戦した小松は、そんな運命が日本に訪れたらと想像した。だから、列島水没までで第一部だったが、日本人が海外で漂流する第二部は長いこと書かれなかった。

 原作が書かれたのは、単一民族国家だという思いこみが、日本でまだ強かった時代だ。また、科学や政治のシミュレーションは緻密な反面、作中には職業を持った女性が登場せず、次の時代の希望となる赤ん坊を産む存在として女性をとらえる旧い価値観で書かれていた。このため、樋口真嗣監督による2006年の『日本沈没』再映画化では、潜水艇操縦士の恋人はハイパーレスキュー隊員、政府計画を推進するのは危機管理担当の女性担当大臣とするなど、ジェンダー観の更新を図った。

 『日本沈没2020』では、さらに価値観が更新されている。家族を牽引する母は職業を持ち、他にも重要なポジションに女性が配されている。また、小松は2006年に谷甲州と共著で『日本沈没 第二部』を発表し、列島水没後に各国へ分散した日本人が入植に成功する一方、現地で摩擦を起こしたり、難民化したことを書いた。それに対し、『日本沈没2020』は、この国が労働や観光の面で外国人に多くを頼るようになり、主人公のように家族となることも珍しくない現状を踏まえている。小松が領土消失後の海外避難先で訪れると想像した日本人の国際化は、すでに進行している。最終回でフジハタザオの花言葉「共に生きる」が紹介されるのは、多様な人々の共生を日本の未来の理想とするからでもあるだろう。

 1995年の阪神・淡路大震災後の災害の多さを視野に入れ企画された2006年版映画『日本沈没』の物語では、命がけの行為で事態好転が試みられた。現実の被災者も意識して、未来への希望が残る結末に改変したのだ。また、『日本沈没 第二部』では、列島が消失した海域にメガフロートを建造し国土を復興する構想が出てきた。『日本沈没2020』のエンディングは、それらのモチーフを含んでいる。『日本沈没2020』には原作や先行バージョンに対する応答とみなせる工夫があるのだ。

 小松原作には、沈没を予測した田所博士と避難計画の黒幕である老人が、この国の外国に対する内弁慶的な弱さを指摘するとともに日本列島に「恋をしていた」と会話する名場面があった。それに対し、『日本沈没2020』ではハーフの姉弟とグループの日本人の若者が即興ラップでこの国への思いを吐き出す「沈んで正解」「勝手に出て行け」「ここが私の大地」と一人ひとりの愛憎が露出する。

 また、原作では地殻の大変動に関して深海底を確認するため潜水艇操縦士が主人公に設定されたが、『日本沈没2020』で歩たちに合流しキーマンとなるのは、モーターとプロペラを背負い、空から舞い降りたKITE(カイト)だ。海底の重さと空の軽さの対比が、両作のテイストの違いを示している。

 原作では政府が、避難先を確保しようと外交交渉を積み重ねる。『日本沈没2020』ではYouTuberであるKITEやゲーマーの剛が、インターネットを介した海外とのやりとりで状況を知り、苦境を打開しようとする。1973年と2020年では個人レベルでの海外との距離感が大幅に変化している。

 研究結果をみることについて原作が予測であるのに対し、今回のアニメでは事後の確認だと先に指摘した。『日本沈没2020』では旅の過程で母が頻繁に写真を撮り、その習慣を歩が受け継ぐ。クラウドやSNSに保存された家族の記録を、列島水没後に剛はあらためて集める。この家族だけではない。国土を失った個々人の記録が集積され、ありし日の日本の街並みを再現した島規模の施設が作られる。

 物語本編ではほぼ話題にならなかった国家政策は最終回の列島水没後に言及され、そうした過去のアーカイブ化やオリンピック・パラリンピック出場が紹介される。崩壊した理想郷シャンシティでは、死者と話す儀式が統合のエネルギーになったが、大異変後の政府は、死者も含め過去をデジタルデータや建造物にすることを国の希望として打ち出す。eスポーツのオリンピック採用といったデジタル技術の発達が語られはする。だが、破滅的であるとはいえ先の未来をどう予測するかをテーマにした原作とは反対に、懐かしい過去をどう記憶、記録するかに重点がある未来を描いて今度の物語は閉じている。これからの成長が期待薄な現実の日本の停滞感と響きあうような後ろむきのラストではないか。

 国家がいかに計画を立てるかではなく、自己責任の判断で個々の命運が決まる本作の世界観は、コロナ禍でいっそう露呈した日本の現状と結果的にシンクロしている。歩はラストで日本生まれの父とフィリピン生まれの母の間に生まれ、多くの人と出会ってきたこれまでを回想して思う。「私が今、ここに立てているのは、そのなかにいあわせた、賢明なる人々の恩恵からなる礎があるからだ。それは家族であるし、集団、大きくいえば国家ということかもしれない」。このナレーションのいいたい意味はわかるが、違和感はぬぐえない。

 確かに家族や、旅における出会いと別れで集団が描かれたが、それらが国家とどう結びついているかは作中で語られなかったのだから。「古来、日出ずる国と呼ばれ、国旗もそれに由来する」と述べたうえで続けられるこの愛国的なナレーションは、唐突で浮ついている。このアニメを罵倒したネトウヨ的なものいいに近いとすらいえる。興味深い観点や意欲的な構想もありながら、本作が傑作になれなかった理由はそこにもある。確かに日本で育ち暮らしているが、家族や仲間などの身近な集団と国家というものがうまく結びつかない。そのようなありふれた体感を作品は乗り越えることができなかった。

 私は何年か先、コロナ禍の混乱した日本に似つかわしい混乱したアニメとして『日本沈没2020』を記憶している気がする。

■円堂都司昭
文芸・音楽評論家。著書に『ディストピア・フィクション論』(作品社)、『意味も知らずにプログレを語るなかれ』(リットーミュージック)、『戦後サブカル年代記』(青土社)など。

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