くどうれいんが語る、俳句・短歌への目覚めとインターネット 「全員を感心させるのではなく、たった一人を打ちのめす文章を」

「私の作品を読むときに、私の顔を思い浮かべてほしくない」

――先日の、『うたうおばけ』刊行記念トークイベント「かくおばけ」では、小説家の磯貝依里さん、エッセイストの生湯葉シホさんと対談するなかで、肩書をどうするかという問題が話題になっていましたね。

くどう:俳句や短歌と随筆など、どれが本業ですかと聞いてくる人がいっぱいいるんですけど、今まで話してきたような成り立ちで文章を書いてきたので、書きたい内容によって書くジャンルを選んで俳句や短歌や随筆にするのは私の中では自然な流れでした。

――肩書問題については、イベント共演者のおふたりから「くどうれいんは、くどうれいんでいいんだよ」と言われていましたが……。

くどう:俳人歌人エッセイスト作家、どれかを選ばなければいけないのかと思い悩んでいたのであの言葉にはマジで泣きそうになっちゃいましたね。だいぶ憑き物が落ちました。でも、私の作品を読むときに、私の顔を思い浮かべてほしくないという気持ちもあります。作品だけが歩いて行ってほしいし、作品だけで評価されたいんです。句会、歌会では作品の名前を隠してシャッフルして、おのおのが好きな作品を選んで、だれが書いたかわからないまま作品だけを見て評をするんですよ。だから、先生に全然票が集まらなかったり、突然ポッと来た人が票を獲得したりする。そういう風に、フラットにいろんな世代、性別、続柄の人とおしゃべりができるのがたのしくて、たのしいたのしいって言っていたらいつのまにかこんな風になって。だからこそ、「くどうれいんが書いたから……」って、わたしのパーソナリティーに紐づいた消費やコンテンツ化をされると、キェーッてちゃぶ台をひっくり返したくなる。

 それと、歌人や俳人と呼ばれることについては、やっぱり申し訳なさもあります。実際仕事と随筆の執筆に時間をとられて俳句と短歌にフルコミットできていない自分が、俳句や短歌ひとつを選んで魂を注いでいる人よりも「俳人歌人」として名前が売れてしまうかもしれない。自分なんかよりもすごい人が俳句や短歌の世界にはたくさんいるんだよ!と言いたいのにその釈明がなかなかできないような。だから、俳人、歌人とはあまり呼ばないでほしい感じは正直残っています。

 ただ、肩書について悩み続けはするけれど、わたしを「俳人」「歌人」と呼びたい人がお仕事をくださって、それをわたしがお金をもらってやっている以上、逃げるように「肩書がいや」みたいな話はやめようと思っています。お笑い芸人や歌手は、そうだと名乗って芸を披露することで生きている。お笑い芸人が「全然笑わせることができないのにお笑い芸人なんて申し訳ないです」って言っても、「は?」ってなりますもんね。だから句集とか歌集のことも、ちょっと本腰入れて考えたいなって。

共感されたくて書いている訳じゃない

――「ソトコト」のインタビュー記事(https://sotokoto-online.jp/538)で「うまくなりたい」とおっしゃっていましたが、くどうさんのなかで“うまくなる”とは?

くどう:「わからないところがある」のが、うまさだといまは思っています。短歌を始めたときは、わかりやすいもの主義だったんです。高校文芸はわかりやすくてメッセージ性があるものが受けたので。でも、東北大学の短歌会に参加したら、ほかの人たちが読む歌が何を言っているのか、全然わかんないんです。ただ、においはする。なんかいいにおいがするんです。やり続けていくと、そのにおいの正体や違いがだんだんわかってくる。

 前に穂村弘さんの講演会に行ったとき、「サーファーになることができていたら歌人にはなっていなかったと思う」みたいなお話をされていたんですけど、わたしも似たようなところがあって。携帯小説好きになれないし、ギターはFが押さえられなくて諦めたし、剣道すぐやめたし、勉強からきしできないし、映画も座っていられないし、お菓子作るの下手だし。最終的に自分がちょっと得意かもって思えることが、なにかを書くということしかなかった。私が好きな俳人や歌人の友人たちは割と「短歌やらなくていい人生のほうが幸せだよな」と困った顔をしながらうれしそうにへらへらしているところがあって、いや、短歌があるから幸せなんですけどね絶対。でもその切実さが歌の深みみたいなものになっているかもって思うときがあって。どこから目線だよという話ですが、高校の時はなるべく多くの人が文芸をやるようになってほしいって思っていたのに、今は「何かを書くことのたのしさが必要な人にちゃんと届けばそれでいい」って思っているんですよね。

 「エモい」とか言ってよろこんで何か言った気になれる人に短歌なんて要らない。誰が見てもなにが写っているかわかる加工マシマシの写真じゃなくて、一見わけわかんない彫刻みたいなものがつくりたい。そういうつもりで書いているので、「ご自愛系」的な感じであっさり消費されることへのもどかしさがあります。

 自分が書くものって、自分だけが思っていること。私オリジナルの嫉妬とか、私オリジナルのむかつき、オリジナルのひねくれ、こだわりだと思っていたもの。だから、スペシャル独特だと思っていた自分の内面について、読んだ人から「すごくわかりますー!」と言われると、ちょっとずつ傷つくんです。“うまくなりたい”っていうのは、全員に好かれることではなくて、わかる人にしかわからないものを出したいんです。全員が膝を打つんじゃなくて、たった1人が悔しくて立ち直れなくなるような作品。

 あの時のインターネットにあった、“今たまたまここにたどり着いたあなたのためだけに書く”みたいな温度感を大事にしたい。だから、作品の感想で「うまく良さを言えないけど、とにかく読んで」と誰かに薦めてもらったり、「なんかわかんないけど悔しい」と言われたりすると、けっこううれしいです。

SNS時代だからこそ、ホームページに帰ります

――そういえば、今回、くどうさんのブログを必死に探したのですが、ぜんぜん見つけられなくて……。

くどう:今、ブログは簡単には検索できないようにしていて。最近SNSで知らない人から気さくにくるDMやリプライにちょっと疲れて。思い切って公式ホームページを作っているんです。ブログもそこに構えます。Facebookをやめて、ツイッターとインスタグラムのダイレクトメールも閉じる予定。SNS時代だからこそ、私はホームページに帰ろっかな。ドットコムにこもろうかな、と。ホームページには、アクセスカウンターも実装する予定です。ホームページ黄金期のインターネットを知っているからこそ、「管理人様、貴重なスペース失礼します」という気持ちは忘れずに生きていきたいです。

■くどうれいん(工藤玲音)プロフィール
1994年生まれ。岩手県盛岡市出身・在住。会社員。樹氷同人、コスモス短歌会所属。著書に『わたしを空腹にしないほうがいい』(BOOKNERD、2018年)、『うたうおばけ』(書肆侃侃房、2020年)。共著に『ショートショートの宝箱Ⅰ・Ⅱ』(光文社)。「群像」(講談社)にて「日日是目分量」連載中、過去に「POPEYE」(マガジンハウス)にて「銀河鉄道通勤OL」連載(〜2020.06)。HP:https://rainkudo.com/

■書籍情報

『うたうおばけ』
著者:くどうれいん
出版社:書肆侃侃房
定価:本体1,400円+税
http://www.kankanbou.com/books/essay/0398

短歌ムック『ねむらない樹』vol.5 特集「くどうれいん/工藤玲音」
くどう新作エッセイ、短歌、俳句の新作が収録されている他、自筆による年譜、盛岡マップ、さらに漫画家スケラッコとの対談も収録されている。
出版社:書肆侃侃房
定価:本体1,300円+税
http://www.kankanbou.com/books/nemuranaiki/0408

 

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