『アクタージュ』は「すぐれた表現とは何か」を探求する 全クリエイター必読の演劇漫画を考察
夫の牛魔王に対する激しい怒りを抱えた羅刹女の心を理解するため、夜凪は自分の中にある怒りと悲しみを掘り下げていき、今まで心の奥底に封印していた自分たち家族を捨てた父親に対する記憶を掘り起こす。夜凪の演技は自分の感情を掘り起こして役に反映させるメソッド演技。それゆえ、過去の記憶の取り扱いを間違えると、自分の心が闇に呑み込まれてしまう。
父への怒りを抱えて、なんとか舞台初日を向かえた夜凪だったが、幕が開く直前に山野上が言ったことは「私はあなたのお父さんとお付き合いしていました」「あなたのお母さんのお葬式の夜も私は彼といました」という衝撃の事実だった。この言葉で、完全な羅刹女となった夜凪の演技は鬼気迫るものとなり、全身から発する怒りは観客を震え上がらせるのだが、これでは舞台にならないと仲間たちは心配する。
現実の感情を火種とする夜凪の芝居は真に迫ったものだが、それは演技ではない。ナマの感情をむき出しにするだけでなく、観客が観ることができるレベルに落とし込まなければ、芝居にならない。ここで描かれているのは「フィクションとは何か」「芸能とは何か」という表現論である。
本作の面白さは、虚構と現実を横断しながら、すぐれた表現とは何か? と問いかけてくると同時に「ただリアルであればいい」という安易な結論に落とし込まないところにある。
この「羅刹女」編では、怒りの塊となった夜凪に対する王賀美のアプローチを通して、その回答が描かれる。王賀美が演じる孫悟空が登場すると凍りついた空気が一変、ヒーローの孫悟空が悪役の羅刹女をやっつける物語だと思って観客は安心して観られるようになる。
スター俳優の王賀美は何をやっても絵になる華のある俳優で、夜凪とは真逆の存在だ。王賀美は自身のカリスマ性に自覚的で、夜凪の狂気の芝居に対抗するため、わざと地面を蹴って、歌舞伎の見栄のような芝居を魅せる。
ここで、夜凪の狂気と王賀美の華が激しくぶつかり合う。その姿は、個人の核となる初期衝動(夜凪の場合は父に捨てられた悲しみと怒り)をどうやってエンターテインメントに落とし込むのかという現実と虚構の戦いそのものである。
同時に描かれるのは、夜凪と拮抗することで俳優としての自分と向き合う俳優たちの姿だ。スター俳優の王賀美は日本にいる時には出会えなかった自分を超える俳優との芝居に歓喜し、俳優として全身全霊を尽くす。一方、猪八戒を演じる烏山武光、沙悟浄を演じる朝野市子は夜凪の芝居に圧倒されながらも、俳優としての底力を発揮、そして三蔵法師を演じる白石宗の落ち着いた芝居によって、羅刹女として暴走する夜凪を抑え込み、なんとか舞台は形になっていく。
これで、舞台がうまくまとまり「無事終わりました」となるのであれば、よくある話なのだが、面白いのが芝居の途中で夜凪の心が、父を憎む夜凪の心と、舞台を成功させたい女優としての夜凪が、分裂してしまうこと。
そして最終的に、夜凪が演技の火種としていた憎しみの感情が擦り切れてしまい、芝居が解けてしまう。演技に心が入らないまま無理やり終わらそうとする夜凪の演技を王賀美が止めてしまい舞台を壊してしまうのだが、芝居が壊れたことで、夜凪は自分がすでに幸せで、怒りも悲しみも過去のものだと気づく。この辺りのやりとりは演技(表現)と現実の関係が多層化しており、何度読んでも面白い。
舞台劇と同時進行で役を演じる俳優たちや芝居を見つめる演出家の物語を重ねていくことで『アクタージュ act-age』は表現の高みを目指す。芝居や漫画も含めた「表現とは何か」を探求する全てのクリエイター必読の書である。
■成馬零一
76年生まれ。ライター、ドラマ評論家。ドラマ評を中心に雑誌、ウェブ等で幅広く執筆。単著に『TVドラマは、ジャニーズものだけ見ろ!』(宝島社新書)、『キャラクタードラマの誕生:テレビドラマを更新する6人の脚本家』(河出書房新社)がある。
■書籍情報
『アクタージュ act-age』既刊11巻発売中(ジャンプコミックス)
著者:宇佐崎 しろ
原作:マツキタツヤ
出版社:株式会社 集英社
https://www.shonenjump.com/j/rensai/act-age.html