NHKプラスは5G時代の「公共性のある放送/配信」となるか 書籍『放送の自由』から考える

 NHKが3月1日、テレビ番組のインターネット同時配信サービス「NHKプラス」の試験的サービスを開始した。現状、同サービスは「放送の受信契約をしている人が追加負担なくスマートフォンやパソコンで視聴できるサービス」と位置付けられており、3月27日の「SoftBank 5G」を皮切りに本格的にスタートする次世代ネットワーク「5G(第5世代移動通信システム)」によって、同サービスの利便性はますます高まりそうだ。テレビ番組のインターネット同時配信サービスがすでに浸透している諸外国に比すると遅きに失した感はあるが、予定通り東京オリンピックが開催されるのであれば、今夏にはその真価が問われるはずである。

放送法はいかにして誕生したか

川端和治『放送の自由』(岩波新書)

 今後、民放局にも広がりそうなインターネット同時配信の動きだが、そこには懸念点も指摘されている。元BPO放送倫理検証委員会委員長の川端和治が著した新書『放送の自由』(岩波新書)は、インターネット同時配信サービスが実現した「放送と通信の融合」の時代において、「公共性のある放送」が成り立つのかを、歴史的/法律的/実践的な背景から探る一冊だ。

 同書では、「放送局が発する電波を多数の視聴者が直接受信機で同時受信する仕組み」である放送と、「有線・無線を問わず電気通信を手段とする情報交換の仕組み」である通信が、技術の進歩によって必然的に融合しつつある中、放送という社会的な制度が今後どのような課題に直面するのかを、「放送制度の歴史と放送の自由」「憲法から見た放送の自由」「自主・自律の放送倫理の実践」の3部構成で解説している。

 第1部「放送制度の歴史と放送の自由」では、GHQ占領下で誕生した放送法が、第二次世界大戦への反省から表現の自由の尊重のための自主・自律の制度として成立したことを起点に、その後、放送制度がどう変わり、あるいは変わらなかったのかを解説。第2部「憲法から見た放送の自由」では、放送による表現の自由とは一体どのようなもので、なぜ憲法で保証されているのかを紹介するとともに、改めて放送法があくまでも自主・自律の制度であることを明らかにし、第3部「自主・自律の放送倫理の実践」では、各放送局の番組審議員とBPOが放送倫理の確立のためにどのような役割を果たしてきたかを、具体的な事例を踏まえて論じている。

 特に、戦意高揚放送や大本営発表などがどのように放送されたのかがわかりやすく記載される第1部は、放送が持つ影響力の大きさを再認識するという意味でも、改めて一読する価値があるだろう。著者がそのあとがきにて、「戦前・戦中の放送に対する反省と悔恨の思いの深さを知らなければ、立法の経緯もその後の変遷も、その理由を理解できない」と記しているように、放送法の根底には当時の日本が犯した大きな過ちが横たわっているのである。

放送法四条は本当に必要か

 本書を通じて検証される主要なテーマの一つは、「放送法四条の撤廃」の是非だ。「放送と通信の融合」の下で電波を有効活用し、新たなモデルを構築するために、放送とインターネット通信で異なる現行規制を一本化するーーすなわち放送法の番組内容規制を通信に合わせて改正しようとするこの改革案は、首相官邸が水面下で用意していたもので、2018年3月に共同通信のスクープで明らかになるや否や、民法放送の側がこぞって反対し、新聞各紙も批判した。

 以下、放送法四条1頂を引用する。

放送法四条1頂

 放送事業者は、国内放送及び内外放送(以下「国内放送等」という。)の放送番組の編集に当たっては、次の各号の定めるところによらなければならない。

1 公安及び善良な風俗を害しないこと。
2 政治的に公平であること。
3 報道は事実をまげないですること。
4 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。

 日本テレビ大久保好男社長は、放送法四条の撤廃案に対して、「放送が果たしてきた公共的、社会的な役割について考慮がなされていない」「何の規制もないネットと同様のコンテンツが放送に流れた場合の社会的影響の大きさを考えると、間違った方向の改革ではないかと思わざるを得ない」などと批判。実際、「番組編集準則」とも呼ばれる四条1頂によって、NHKと民間放送がそれぞれに相互監視しながら公共的役割を担ってきた面はあるだろう。結局、2018年7月に開催された総務省の「放送を巡る諸課題に関する検討会」では、NHKのインターネット常時同時配信の合理性・妥当性などが認められたが、放送法四条の撤廃に関しては今後の検討に委ねられることになった。

 しかし、「放送が健全な民主主義の発達に資するようにすること」との目的で定められた番組編集準則だが、インターネットが大いに発展した昨今、実際にその狙い通りに機能しているとは言い難い局面にある。例えば、2019年7月の参議院選挙におけるれいわ新撰組の選挙運動は、新たな現象として報道されるべき公共性のあるトピックスだったが、公職選挙法の定める政党要件を満たしていなかったことから、どのテレビ放送局も報道してこなかった。これは「表現の自由」におけるインターネットの優位性が示された一例である。

 番組編集準則はもはや不要だとする論調は少なくない。5Gによって送受信できる情報量が圧倒的に増えた状況では「電波の有効活用」を唱える必要もないため、その存在意義は稀薄になっていくだろう。スマホ端末でよりスムーズに動画コンテンツが視聴できるようになれば、視聴者がそれを「放送」なのか「通信」なのかを意識することさえなくなるはずだ。

放送と通信が完全に融合する未来は避けることができない。そのとき「放送」は、何が他の映像配信サービスと違うのかを、どう説明できるのだろうか。説明することができなければ、「放送」という法制度を作って、その維持のための特別の扱いをする必要はなくなるということではないのか。(P230)

 著者は自らが立てたその問いに対し、「政府から独立した「放送」は民主主義の基盤であり、国民の知る権利にとって不可欠である以上、なんらかの手立てによって存続させなければいけない」と結論付けている。そのためには「放送」に関わるジャーナリストたちが巨大メディア組織の中で内部的自由を得ることや、ジャーナリスト同士が連帯する組織、公共性を志向する放送局による新たな「放送倫理」などが必要だとしているが、それが果たして「放送法」によって規定される意味はあるのか、疑問が残るところである。

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