又吉直樹×西加奈子、小説『人間』対談 「自分は誰かで、誰かは自分だって考えることもできる」
西「素直さに人間を感じる」
又吉:西さんはどういう時に人に対して「人間やな」って感じます?
西:むき出しの感じを目の当たりにした時かな。例えば親世代ってSNSも知らないし、自意識のないほとんどまるのままの人間で生きてきたように思うから、人間力がすごく強いなって思うんです。『火花』の神谷がそうやったけれど、又吉さんは「普通のことを普通に言うのが一番のボケ」って言ってるでしょう? うちの母はめっちゃ普通のことを普通の正しいトーンで言うんです。春先に母と喋ってて、「この時期、寒なったり暑なったりするから何着ていいかわからへんねん」って言ったら、「そういう時に便利なもん教えたろか? スプリングコートや」って。なんか笑い止まらへんくなって。「雨降ったらな、濡れるやろ」とか。そういう時に涙出るぐらい笑ってしまうし、「この人、ちゃんと人間やな」って思う。
又吉:すごくわかります。僕、児玉と六本木ヒルズの映画館に行こうとした時に、60代ぐらいのご夫婦とその娘さんの家族がいたんですけれど、娘さんが前のお店に鞄を忘れたみたいで、お父さんが「取ってくる!」って言ってダッシュで走り出したんですよ。でも奥様が「1人で大丈夫?」って言ったら、立ち止まって、不安そうな顔したんです。それがめちゃくちゃ可愛いなと思って。「1人で大丈夫?」に引っ張られて、「ダメかも」って思ったんでしょうね。西さんがエッセイに書いていた中野の駅前のおばあちゃんの話も、すごく人間らしいエピソードだと思います。
西:あれ、私もめっちゃ覚えてます。自転車を押して歩いてたら、すっごい夕焼けで。夕焼けって、人間の人間性をむき出しにするじゃないですか。それだけで泣きそうで。そしたら、私の前を歩いていたおばあちゃんが、花屋さんの花1輪を自然にポンと取ってそのまま普通に歩いていったんです。普通に見たら万引きなんです。でも、なんか、むちゃくちゃ感動した。
又吉:そのエッセイ読んだ時、泣きそうになったわ。たぶん、お金出してお花を買うみたいなシステムを超越して、ただそこにある花が欲しいと思って取ったんですよね。
西:そう。たぶんそういう素直さが好きで、私はそこに人間を感じるんやと思うんです。『人間』の最後でも、永山くんのお父さんとお母さんの話が出てくるけれど、ふたりともめっちゃ人間ですよね。中盤までは言葉を尽くして、人間の歪さとか醜さとかを描くんやけど、最後にまるっと人間で、そのまんまで強いお父さんとお母さんが出てくる。書いていて自然とたどり着いたのかもしれないけれど、奇跡的な着地やと思いました。
又吉:永山は夢を抱いて東京に出てきて、自分にはこれしかないって思ってやってきて、困ったり悩んだりしているわけじゃないですか。でも、その価値基準の延長線上というか、目指している理想像は、両親の姿からかけ離れているんですよ。僕自身、両親をすごく尊敬しているんですけれど、僕の価値基準や理想としているものの先に両親の姿はなくて。その尊敬ってどういうことなんやろうって思ったんですね。で、綾部とコートジボワールの辺境の村に行ったときに気づいたことがあって。そこの小学生が、子供の頃からボールを触ってる人特有の柔軟さがあって、めちゃくちゃうまいんです。でも、高校生は体が大きくてバネがあって、スピードもあるんですけれど、テクニックがない。なんでだろうと思って村の人に聞いてみたら、彼らは国や村のゴタゴタで小さい頃からサッカーができていなかったというんです。サッカーでもなんでもそうだけれど、たしかにプロになれるかなれないかは重要で、プロは素晴らしいプレーをするから僕らはお金を払って見に行ったりするわけです。でも、ここで全力でボールを追いかけている高校生たちのプレーには、プロになるとかならへんとかの基準とはまったく別の絶対的な価値があって、その価値はうまい小学生たちのプレーと等価やと思ったんですね。どっちも一緒やんって。そこにものすごく人間を感じて、いろいろなことがようやく理解できてきたというか。開き直って好きなことやったらええんかなと思うようになった。前は誰かの考えとか、誰かが決めた価値みたいなところに揺さぶられたりしてたけど、あんまり囚われる必要がないというか、なんでもええやんって。
西:又吉さんって昔から芯が強い人やったけれど、その「一緒やん」って感覚が匠の技のレベルになってきてる気がする。おじいちゃんとか、めちゃくちゃ草花育てるのうまいじゃないですか。あの感じになってきたのかなって。若い頃は自分が草花を育てているって思うから、草花と自分との間に距離があって、自分のパワーで草花が死んでしまうこともあるけれど、おじいちゃんは草花も自分も一緒やんみたいな感じで、だから育てるのがうまいんじゃないかと。永山くんのお父さんもそんな感じで、他者とか人間以外のものとの境界線がない感じ。
又吉:もしかしたらかなり危険な考えかもしれないんですけれど、そういう風なことがあってから「全部一緒やん」って思ってまう癖があるんですよ。あいつは嫌な奴やな、嫌な奴はこうやから嫌な奴で、良い奴っていうのはこうやから良い奴で、つまりどっちも一緒やなって。飯食べようかな、食べんとこうかな、食べへんかったとしたらこうやな、食べるとしたらこうやな、一緒やなって。
西:「僕はあなただ」っていう感覚があるって、昔から言っていましたもんね。
又吉:「僕はみんなだ」とか「僕はあなただ」っていう感覚はむちゃくちゃあります。好きな人になりたいとか。小説を読むときも、例えば『人間失格』を読んで大庭葉蔵に対して「これ俺や」とか、『罪と罰』を読んでラスコーリニコフに対して「これ俺や」とか、『変身』のグレーゴル・ザムザにさえ「これ俺や」って思ってしまうんです。ずっと「俺やな」と思って本を読んできた。
西:公言してきたしね、それを。
又吉:そういう風に公言してきた自分が、いざ小説を書きますっていうときに、「この小説の中に自分はいません」って言うの、無茶苦茶やんって思うようになりました。僕自身と作品とはわけて読んでくださいって、そんな都合の良いこと言えへんなと。作品の中の人物とどういう風に距離をとるかとか、これは僕自身なのか違うのかとか、そういうのも「どっちも一緒」なんですよ。作家と小説自体はわけて捉えなければいけないって思っていたこともありますけれど、そういう風に思っている時点で、その作家のことが頭にあるわけじゃないですか。だからもう、全部一緒やんって。
西:すごいな。それって悟りみたいなものじゃない? 又吉さん死ぬんかな。
又吉:もう下手したら死んでるかもしれないです。