阿部和重『オーガ(ニ)ズム』は2010年代の終幕にふさわしい傑作だーー「擬似ドキュメンタリー的」転回を考察
擬似ドキュメンタリー的世界と表象=描写=父の脆弱化
何にせよ、かつてはこの現実世界をあてがいぶちに「表象」するスタイルとして解釈されていた擬似ドキュメンタリーが、この現実そのものが徹頭徹尾擬似ドキュメンタリー化(ポスト・トゥルース化?)し尽くしたことによって、その評価が大きく転回した――『Orga(ni)sm』の世界観と語りは、その転回をクリアに反映させた作品となっている。
あらためて強調すれば、そこでの擬似ドキュメンタリーの評価の今日的な転回は、もとより映像にせよ活字にせよ、作品を構成する記号は、「この現実」とはさしあたり別物でありながら、その現実を誤差や齟齬を交えつつフィルタリングして映しだすものであるという「表象」をめぐるアナログ的な信憑が機能不全に陥っているという事態が前提となっている。擬似ドキュメンタリー化した世界において、擬似ドキュメンタリーの「映像」と、この「現実」はズレることなく、ぴったりと矛盾なく重なりあっているように見えるからだ。
つけ加えておくと、この点で興味深いのが、これも佐々木敦のインタビューのなかで、阿部が「神町三部作」を含む自作の世界観を、かねてからハリウッドの「マーベル・シネマティック・ユニバース」(いわゆる「マーベル映画」)のように構築したいと考えていたと述べている点だ。つまり、マーベル映画に代表される最近の「ワールド・ビルディングもの」の映画やドラマは、まさに「この現実と同じように個々の映画の物語を自己完結的に「世界化」してしまう」プロジェクトだといえる。そこでもまた、違った形ではありながら「映像」内の世界と「現実」の世界は過不足なく同一視されることだろう。
ともあれ、このことについては、『Orga(ni)sm』の語りのうち、読者に「エンタメ感」を強く感じさせている要因のひとつだろう、キャラクター相互の会話劇の前景化という特徴とも深くかかわっているように思える。本作では、「阿部和重」やラリーら登場人物たち同士のテンポよい会話のシーンが大きな比重を占めているが、それは逆にいえば、過去の『シンセミア』などに比較し、物語世界の記号的再現=「描写」の比重が少なくなっている表れともいえる(実際、『シンセミア』でのぬめるような描写の圧倒的奔流は本作ではほぼ顔を見せない)。
ここで私は、かつて渡部直己が指摘した今日の日本文学におけるある指標的なパラダイムシフトを想起せずにはいられない。渡部によれば、およそ2000年代なかば以降の日本の小説においては、総じて特異な「人称」の操作(移人称)が顕著化し、その代わりに、かつてあった「描写」の技術が急速に後退しているという(「移人称小説論」、『小説技術論』所収)。いわゆるライトノベル文体が典型的であるように、「二、三十年前に比べると、描写の量がじつに少なく」なり、記号はもはや現実との「表象」の齟齬をかいさずに任意なあいまいさで接するようになるのだ。私の見るところ、『Orga(ni)sm』の文体も、この渡部の見取り図からおそらく無縁ではない。そして、勘のよい読者ならおわかりの通り、記号=映像と現実が齟齬なく重なりあう2010年代的な擬似ドキュメンタリー化した世界こそ、まさにこの渡部のいう小説における「描写」の秩序を衰退させている文化状況と同じものだろう。
そして、最後にここでテマティズム的な手札を切っておけば、こうした『Orga(ni)sm』における擬似ドキュメンタリー化/描写=表象の後退という語りの兆候は、ひるがえって本作の主要なモティーフとも密接に共振している。それこそ、物語のふたりの主人公、「阿部和重」と「バラク・オバマ」が揃って体現する「父の脆弱化」という主題にほかならない。たとえば、「阿部和重」=「四五歳六ヵ月」の父親は、傍若無人な「三歳児」の息子に物語を通じて終始翻弄され、おたおたとうろたえることしかできない。他方、シリア軍事介入の外交的「失敗」など、数々のジレンマに陥り、もはやかつてのように「世界の警察官」たる任務を放棄し、「「挑発的な弱さ」を脱しえないかもしれないが、無言でいることもできない」(258頁)という立場に置かれている「バラク・オバマ」の姿もまた、「阿部和重」と同様の「惨めな父親」の姿を忠実に反復している。
この『Orga(ni)sm』が描きだす「弱い父」のイメージは、さしあたり先行する『シンセミア』『ピストルズ』の「大文字の戦後史」や「一子相伝の父娘関係」が象徴する主題を逆転させたものになっているが、それはまた、かつての映像や小説でまさに父のように「大文字の秩序」として振る舞っていた表象=描写の地位の衰退と正確にオーヴァーラップするものにもなっているわけだ(ちなみに、『Orga(ni)sm』でのこの「弱い父」としての「阿部和重」を不気味に監視する妻=「川上」のドローンの視線は、『シンセミア』において数々の女性たちを監視する盗撮グループの男性たちのまなざしをジェンダー的に反転させたものになっていることにも注意すべきだろう)。
……以上のように、『Orga(ni)sm』における「語り」の変質は、おそらくは「ポストメディア的」な――メディアを横断した――今日の環境の変化を鮮やかにキャッチアップし、それを文字通り有機的(organic)に叙述やモティーフのレヴェルで組みあげてみせた作者固有の文学的想像力と密接に関係している。2010年代の日本文学の終幕を飾るにふさわしい、今年最高の傑作をぜひさまざまな視点から堪能してほしい。
■渡邉大輔
批評家・映画史研究者。1982年生まれ。現在、跡見学園女子大学文学部専任講師。映画史研究の傍ら、映画から純文学、本格ミステリ、情報社会論まで幅広く論じる。著作に『イメージの進行形』(人文書院、2012年)など。Twitter
■書籍情報
『オーガ(ニ)ズム』
著者:阿部和重
発行:文藝春秋
発売日:2019年9月26日
定価:本体2,400円+税
『オーガ(ニ)ズム』特設サイト:https://books.bunshun.jp/sp/organism