李琴峰が語る、セクシャリティとアイデンティティの揺らぎ「10年後には違う自認が生まれるかも」
台湾出身の小説家、日中翻訳者の李 琴峰が著した小説『五つ数えれば三日月が』が、第161回芥川龍之介賞候補になるなど、高い評価を受けている。台湾から日本に移り住んだ林妤梅と日本から台湾に移り住んだ浅羽実桜が久しぶりに再開するエピソードの中に、民族的アイデンティティの倒錯と性的マイノリティの心の揺らぎを重ねて表現した同小説は、グローバル化が進み多様な価値観が認められつつある一方で、言いようのない息苦しさも感じる現代社会の一面を精緻な筆致で描き出している。著者の李 琴峰に、同小説のテーマとなる民族的アイデンティティと性的マイノリティの問題についての意見を伺うとともに、日本語で文章を書くことの意味についても聞いた。(編集部)
「生きづらさや息苦しさは普遍的なもの」
ーー『五つ数えれば三日月が』を書き著したきっかけは?
李 琴峰(以下、李):日本の大学で知り合った、小説の実桜のような友達がいるんです。小説と似たように、私は日本に住み続けていて、彼女は台湾に行って日本語教師として働き始めました。そして彼女は、いつの間にか結婚して、家庭を持ちました。ちょうど作品と同じぐらいの日付で、2018年の夏に久しぶりに東京で彼女と会って、いろいろ話しているうちに台湾の遠い昔の記憶が自分の中で浮かび上がってきたんです。私はすっかり東京生活に慣れていて、逆に彼女は台湾生活に慣れていて私より詳しい。そういった倒錯性がすごく面白いなと思って。2人の関係性をテーマに、故郷あるいは異郷に対する記憶、住み心地みたいなものを小説にしたら面白いのかなと思ったのがきっかけでした。
ーー日本から見た台湾、台湾から見た日本という視点から見て、李さんはどんなことを感じましたか。
李:台湾にいても日本にいても、現代社会において私たちがアイデンティティを自らの意思だけで確立するのは困難で、いろんな価値観を押し付けられているということは感じました。国籍とか出生地、性別、あるいはセクシャリティといったものに、私たちはいつの間にか囚われています。小説の中の主人公の2人、一人(林妤梅)は台湾から日本に来て、一人(浅羽実桜)は日本から台湾に行く。自分が住む場所、そして過ごしたい人生というのを自ら選択するのですが、そういったプロセスの中で、どこかで必ずその立場における責任みたいなものが伴ってくるんです。例えば、実桜が二児の継母になることを選んだりすると、本人の意思とはまた別に継母としての責任を求められて、そこに難しさが生じる。一方で、作品の中の妤梅は日本に住み続けることを選びますが、やはり何かしらの困難を抱えます。そんな2人が久しぶりに会うと、対話を通して前世の人生のような感じで、故郷の記憶が蘇ってくる。そこに文学的な面白さを感じたので、力を入れて描きました。
ーー二人の会話には、元に戻せない関係性に対する寂寥感が滲んでいて、趣がありました。
李:そうですね。時間は過去に戻らないですし、結局、今を生きている私たちも時間、時代というものに押し流されながら前に進むしかない。そういったもどかしさを、私も恐らく現代人ならちょっとは感じているんじゃないかなと思います。そこも意識的に作品に取り入れました。
ーー特にここ10〜20年は、テクノロジーの発展やグローバリズムによって、どんどん価値観が変わっていて、生活にさえその影響を感じます。そのスピード感についていくのは大変ですよね。
李:一般の生活者にとっては難しいかもしれないですね。グローバル化の流れについていけない人たちにとっては、グローバル化はあたかも自分の生活を壊しているようにさえ見えるだろうし、そうなると保守的な守りの姿勢に入っていくのも理解はできます。グローバル化というものが、もっと人間に自由さをもたらすようなものであれば歓迎したいと思うんですけど、どうもそんな簡単なものでもない。グローバル化の中でも権力関係みたいなものは存在していて、それも気をつけないといけないことだと思います。
ーー本作では、海外から日本に来た方が抱く様々なギャップや、日本で過ごすことの難しさも描かれています。
李:外国人が日本で生きる難しさはもちろん書いていますが、そもそも自国で生きることだって簡単なことかというと、決してそうではありません。むしろ、息苦しさや生きづらさを感じずに普通に生きていけるような人って、ごく一部のマジョリティの人間だと思います。例えば、小説の中の妤梅だって台湾ではやっぱり生きづらさを感じていましたし、色々な過去があって、考えた結果として日本留学を選んで今の生活を手に入れています。だから、必ずしも異郷で暮らすのが大変で、故郷で暮らすのが快適というわけではない。生きづらさ、息苦しさというのは、人間が生きる上で普遍的なものだと思います。