突如現れた“生々しく無加工”な衝撃――Nakamura Hakの歌が浮き彫りにするもの つやちゃん、伏見 瞬、小町碧音が徹底論考
「憧れと実存にストレートに迫ってゆく気迫」(伏見 瞬)
全てを世代論に収める気は毛頭ないけど、現在の10代から20代の世代において、“ストレートであること”が自然なものになってきているように思う。
音楽や文化の世界において、かつてであれば上の世代に対する反発があったり、世界に対して“あえて”距離を取る身の振り方が、もっと自然なものとしてあった。アイロニーや含羞が、物心ついた時には内側にあった。
しかし、今新たに世に出てくる世代は、そのような迂回路を取らず、直線で過去の遺産と接する態度を持っている。例えば、現在20歳のSombrは90年代オルタナティブロックへ率直に愛を表明し、コーチェラ(『Coachella Valley Music & Arts Festival』)のステージでSmashing Pumpkinsのビリー・コーガンと共演する。それは現在23歳のオリヴィア・ロドリゴがThe Cureのロバート・スミスとグラストンベリー(『Glastonbury Festival』)で共演し、「drop dead」にThe Cureの歌詞を引用する素直さに通じている。ストリーミングを当たり前の環境として受け止めざるを得なかった世代は、時代や場所に関わりなく、“好きな音楽”への愛着をストレートに抱く。古いものだろうが遠い国のものだろうが、好きなものが好き。自分の好きなものを、まっすぐに追求していく。最新の音楽を追わなければいけない、いろいろな音楽を知らなきゃいけないという、以前の若者だったら持っていた切迫感も、共有されていないだろう(同時に、そうした切迫感に憧れを持つ10代だっているだろう)。
Nakamura Hakの音楽には、そのような世代的ストレートさを感じる。私はNakamuraの世代や年齢を知らないが、しかしこれは新しい世代の音楽だと思う。ヨルシカやロクデナシのようなボカロP出身コンポーザーを擁するアーティストに通じるメロディやコード感が、音数の多い打ち込みではなく、ギターの弾き語りだけで鳴らされる。いわゆるフォークシンガーとも、ネットカルチャーのミュージシャンとも違う、今までにない存在感を覚える。
特筆すべきは音響だ。弾き語りの素朴さがそこにはない。弦に指が触れる時のノイズにせよ、声を出し切った後の息遣いにしろ、一つひとつが粒立ったリズムの感触として残ってゆく。ボン・イヴェールやスフィアン・スティーヴンスのように弾き語りに音響加工を加えたりするわけでも、音を足すわけでもない。何も加えず、何もいじらず、優れた音響に到達する。その録音の力が、「夜に浮かぶ」「善と悪」といった楽曲や、5月20日リリースの1st EP『白は夢』全体から伝わる魅力である。
ここに、音楽的な幅はさほど感じない。前述したヨルシカの初期楽曲や、あるいはsyrup16gや羊文学からは“匂い”以上の影響は見えない。しかし、そうした影響源(と思われる音楽)とは違うものとして、Nakamura Hakの音楽は聴こえてくる。それは、ストレートに憧れに近づける速度が、音響的な進化に繋がっているからではないか。
〈そろそろスタートラインには立てたかい?/人々の常が常にできないちっぽけな僕は〉(「白は夢」)
〈現実と希望の隙間で人知れず/摩耗する体 その摩擦でも/乾かない雨 凍てつく空気/ついに凍った花 立ち尽くす空/あの幸せは必要じゃなかったのか?〉(「ただ美しい呪い」)
社会の中での劣等意識や徒労感が、歌詞の全体を覆っている。そこに〈やる気のない雪が降ってる〉(「白は夢」)といったような、内面と景色がガッと合成されるような言葉が落とされる。この切迫した情景に乗れない人もいれば、グッと胸を掴まれる人もいるだろう。「ただ美しい呪い」の裏返るような甲高いブレスに、「善と悪」の息継ぎの激しい歌唱に、戸惑う人もいるだろう(私は戸惑う方だ)。しかし、そこには自らの憧れと実存にストレートに迫ってゆく気迫も、同時に感じられる。
Nakamura Hakの音楽が今後どのように転ぶか。これがよくある情念に収まるのか、非凡な未知になるのか。それはわからない。ただ、新たな世代の表現がここに溢れる予感を、私は感じ取ることができる。(伏見 瞬)