東日本大震災から15年、“世代を繋ぐ役目”の大切さ 東北ライブハウス大作戦・西片明人が語る復興支援の歩み
東日本大震災をきっかけに立ち上がったプロジェクト「東北ライブハウス大作戦」。「人と街と世代を橋渡しできる『場』」をコンセプトに、再び人が集まり、新たな繋がりを生み出すべく、大きな被害を被った東北三陸沖沿岸部に3軒のライブハウスを作るところから始まった。
今年で震災から15年が経つ。東北ライブハウス大作戦は、この15年間でどのように被災地支援と向き合ってきたのか、そして3月10日、11日の神奈川・ぴあアリーナMM公演を皮切りに、宮古・大船渡・石巻・金沢をまわるファンドレイジングイベント『東北ライブハウス大作戦 “LIFE”』に込めた思いとは何か。リアルサウンドでは、東北ライブハウス大作戦の作戦本部長である西片明人にインタビューを実施し、復興支援を取り巻く実情やこれまでの歩みを深掘りした。(編集部)
「東北ライブハウス大作戦」が立ち上がった経緯
ーー改めて「東北ライブハウス大作戦」が始まった経緯から教えてもらってもいいでしょうか?
西片明人(以下、西片):僕の生業はPAで、BRAHMANをはじめとしたライブのPAをしています。東日本大震災が起こったあと、BRAHMANはいち早く支援活動を始めたので、僕も、仲間がやっている活動に参加する感覚で一緒に支援活動をしていました。被災地に物資を持って行ったり、震災から1カ月後の4月には盛岡のCLUB CHANGE WAVEでワンコインライブをやったり。そんなあるとき、TOSHI-LOWに「君は支援者も多いし、こういう活動ができていいよな。俺は何もできないから」みたいなことをポロッと言ったら、そこでTOSHI-LOWとケンカになって。TOSHI-LOWに「あんただからできることもあるだろう」と発破をかけられたんです。
ーーTOSHI-LOWさんの言葉がきっかけだったんですね。
西片:そこから、自分に何ができるのかをずっと考えていました。それで、1カ月くらい経った6月12日に宮古の魚菜市場で、札幌のSLANGが、宮古の人だけを招いたイベント『POWER STOCK in 宮古市魚菜市場駐車場』を開催したんですが、そこへ向かう道中でふと「ライブハウスを作ろう」と思いついたんです。僕はずっとライブハウスで働いてきて、ライブハウスを作ったこともあるし、ライブハウスのことはわかっている。だから自分にできることはライブハウスを作ることかなって。その日、ライブが終わってすぐに、今宮古の支部長をやっている太田(昭彦)に打診しました。
ーーその日すぐに!
西片:はい。そもそも宮古には震災前に3~4回行っていて。市民会館や喫茶店を片付けたような場所でライブをしたので「ライブハウス作ればいいじゃん」みたいな話を元からしていたんですよ。
ーーなるほど。
西片:あと、ライブハウスを作ろうと思った理由がもう一つあって。4月に盛岡でライブをしたときに、BRAHMANとスタッフ数名で沿岸部にも行ったんですが、そこで、何と説明していいかわからないような光景を目の当たりにして。避難所にも行きましたし、実際は行きませんでしたが、遺体安置所にも行きますかと言ってもらって。避難所も遺体安置所も、強制的に集められた場所ですよね。そうじゃなくて、楽しむために、自分の意思で集まれるような場所があるといいなと思った。たぶん、その考えも刷り込まれていたんだと思います。
ーーとはいえ、震災から3カ月しか経っていないところに新しい施設を立てようとするのは大変ですよね。よく思いつきましたね。
西片:そうですね。今振り返ると、無茶なことをしたなと思います。当時は単純に「何もないなら建てられる」という考えでしたけど。だから、仲間は賛同してくれましたけど、実際すごく非難されましたよ。「売名行為だ」とか「住むところもないのに何考えてるんだ」って。
ーーでも諦めずに試行錯誤し、震災から1年半後の2012年8月に岩手・宮古 KLUB COUNTER ACTION MIYAKOと、大船渡のLIVEHOUSE FREAKS(現:大船渡 KESEN ROCK FREAKS)をオープンさせました。
西片:はい。廃墟を何件か当たったんですが、どれも建物として使い物にならなくて、太田の持っている土地に建てました。大船渡は『KESEN ROCK FESTIVAL』の実行委員の人たちに声をかけて、スタッフの親戚の建物をライブハウスにさせてもらいました。大船渡にも作ろうと思ったのは、沿岸部に2つライブハウスがあればツアーを回れると思ったから。とはいえ、最初はあまりみんなピンときていなかったようでした。だけど、最初の支部長にあたるヤスくん(菅野安宣)とオキナワ(菊池智仁)のふたりが中心になって動いてくれて。とにかく僕は待てなかったんですよ。街が復興して新しくなってからライブハウスができるのではあまり意味がないと思った。「自分のこの熱があるうちに」というのと、当時の光景を見に来てほしいと思ったから。
「期間限定ではなく、世代が変わりながらも継続していける場所」
ーー西片さんにとってライブハウスとはどのような場所だったのでしょうか?
西片:学校じゃ教えてくれない大切なものを教わったのがライブハウスでした。いいことも、悪いことも。僕は学校であまり友達ができなかったんですけど、ライブハウスではできたんです。どうしても学校は“詰め込まれた場所”みたいな感覚があって、そのなかで僕はマイノリティだった。だけどライブハウスはそういうマイノリティの吹き溜まりみたいな、自由に集まれる場所で。そういう場所ってすごく大事だと思う。特に僕らの時代のライブハウスは今みたいにコインロッカーとかもなかったし、床は灰皿みたいだったし(笑)、自己責任の場所。いろんな意味で勉強になる場所だなと、僕は思っています。
ーーだからこそ、被災地にもそういう自由に集まれる場所が必要だと思ったと。
西片:必要だったんですかね……。うーん、必要だったかどうかがわかるのには、まだまだ時間がかかるのかなと思います。東北ライブハウス大作戦のホームページを作ったときに「人と街と世代を橋渡しできる『場』」と書いたんですが、ようやくその芽が出てきたかなという感じはするんですけど……。でも僕らが作ったライブハウスは期間限定の店舗ではない。世代が変わりながらもずっと継続していけるような場所を作ったつもりです。
ーーその土地でずっと継続していくものを作るということこそが復興支援ですもんね。
西片:そう。「10年経って、じゃあおしまい」というものではないですから。僕たちはいつか死んじゃいますけど、それでおしまいでもない。ずっとあり続ける場所であってほしいなと思っています。