ヒグチアイの赤裸々な言葉が現代を生きる我々にもたらすもの――6thアルバム『私宝主義』クロスレビュー
ヒグチアイが6thアルバム『私宝主義』を10月29日にリリースした。リアルサウンドでも3カ月連続でインタビューを展開してきた「“独り言”三部作」の楽曲も含む同作には、35歳を迎えたヒグチが、これまで以上に赤裸々に人生観を書き綴った11曲が並ぶ。『私宝主義』という1枚は、現代社会を生きる人々に何を訴えかけるのだろうか。3名のライターそれぞれの知見や解釈を反映したクロスレビューによって、『私宝主義』から浮かび上がるものを紐解いていく。(編集部)
「自己批判の権利を、自分だけの“宝”とすること」(蜂須賀ちなみ)
前作『未成線上』(2024年)では、タイアップを通じて新たな創作姿勢を掴み、“ラブソング三部作”も含めて50曲近くも書いたというヒグチアイ(※1)。今回リリースされた6thアルバム『私宝主義』は、前作で結実した表現の方向性の継続・発展として、30代女性の飾らない現況と音楽家としての技術的成熟が示されている。
技術的成熟は、個別の楽曲においてより具体的に確認できる。例えば「エイジング」は、加齢というテーマの切り取り方が秀逸だ。この曲で歌われているのは単なる老化への嘆きではなく、若者に煙たがられる中年の肩身の狭さや心細さ、時代との価値観の齟齬から来る疎外感。激しいバンドサウンドに乗せて怒りや非道徳的な欲求を叫ぶ姿は、傍から見ればモンスター的であり、〈君にすりゃ「こんなの人間じゃない」〉というオチも秀逸。現代社会の断面を切り取った楽曲となっている。
「静かになるまで」は、学校の朝礼などで先生がよく言っていた「静かになるまで○○分かかりました」というフレーズをモチーフに、心のざわめきを描く発想力に感嘆する。人間の多面性に言及しつつ、「だから悪い人なんていないよね」という毒にも薬にもならないところに帰着するのではなく、〈全てを知ったところで/なにも変わらない心を/今日も抱いて眠る〉としている点に、書き手としての容赦のなさ、言い換えると真摯さを感じた。
「恋に恋せよ」は、〈ああ/君のことが君のことが/君のことが好きなんです〉と歌うサビがキャッチーだが、単純な恋愛讃美で終わらず内省に入り、恋愛を入口に「人生って」と想いを巡らせているのがヒグチアイ節という印象だ。彼女と同世代である私は、〈1人になんかなりたくないのに/誰かといられる気がしない/理想なんて追い求めてないのに/現実すら手に入らない〉というフレーズに心から共感した。
共感といえば、アルバムの冒頭3曲に関しては、「わかる……本当にそう……」と唸るほかなかった。やる気が出ず、何もできない日の自分を〈ださいださいださい弱い弱い弱い〉と嘆く「わたしの代わり」。自分が選ばなかった人生の選択肢、諦めた事柄に想いを馳せる「花束」。〈つまんない人間になっちまったな/ちゃらんぽらんでよかったのにな〉と若い頃の自分の声が響く「バランス」。3曲に通ずるのは、不完全な自己を受容する姿勢。「わたしの代わり」ではダメな日の自分を受け入れながら、力強く〈わたし〉と繰り返すエンディングへと至る。「花束」では、〈満ちているの 欠けたままで〉と成熟した人生観が歌われている。「バランス」では〈いやちゃらんぽらんじゃいらんなかったな〉と何らかの理由で現在地に至った自分を否定しない論調が貫かれており、かつての自分と現在の自分が和解している。
『私宝主義』というアルバムタイトルが示すのは、“複雑さや欠点も含めて、自分を最も正確に理解し評価できるのは自分”という哲学だろう。「静かになるまで」にある〈薄汚く光る宝石よ/私のこと 私だけが 貶すことを許されてる〉という一節も、アルバムタイトルと深く結びついているものと考えられる。自己批判の権利を、自分だけの“宝”とすること。しかしこれは、自己卑下の許可証ではない。極端な個人主義や他者との断絶を推奨するものでもない。むしろ他者からの一方的な評価や批判から自分を守る意味での“自分のことは自分が一番わかっている”という主張であり、ここにシンガーソングライターとして自分の歌を、自分の声で歌い続けてきたヒグチアイの矜持を感じた。
同時に、今作はリスナーに向けて、自分と向き合うことの重要性を問いかけている。ヒグチは「自分のことを考える時間を持ってほしい」とリスナーに伝え続けてきたが、SNSで他者の意見をリポストし、自分の主張を外部に託すことが日常となった現代において、このメッセージはより切実な意味を帯びている。他者からの承認に依存し、自分で自分を評価する能力を弱めがちな現代社会において、今作が提示する“私宝主義”という哲学は、健全な自己決定権の回復を促す重要な指針となる。音楽は共感の入口になるが、最終的には聴き手自身が考え、答えを見つけることが重要だ。彼女の一貫した姿勢は、極めて現代的で意義深い提言と言えるだろう。(蜂須賀ちなみ)
※1:https://beavoiceweb.com/interview/22643/