歌い手界の新星・それの井戸――稀有なその歌声はどこで生まれたのか? これまでと今、そして未来を語る

 ボカロシーンの祭典である『ボカコレ』と同様、新たな才能を発掘する一大イベントとして半年に一度ネットシーンを賑わせる『歌ってみた Collection』(以下、『歌コレ』)。ボカロカルチャー黎明期から常に傍らにあった文化“歌ってみた”の祭典となる『歌コレ』も、半年おきの開催時には長年シーン人気を牽引するベテランから突如彗星のごとく現れた新星まで、毎回非常に多くの歌い手が参加。ここから次代のシーンを担う注目のシンガーが現れることも少なくない。なかでも『ボカコレ』同様に『歌コレ』で毎回大勢の注目が集まるのは、初投稿=デビューから2年以内の新人のみが参加できるルーキー部門だ。たった2年、人によってはわずか数カ月で、数百~数千もの投稿作のトップに立つ可能性を手にする。そんな夢のある部門ということも、その熱をさらに加速させているのだろう。

 今回、そんな『歌コレ2025春』にてデビューわずか1年でルーキー部門優勝に輝いた歌い手・それの井戸がImgramox Musicより、カバーソング「-ERROR」を10月1日に配信リリース。たった1年という短期間で、歌い手界の祭典にて頂点へと駆け上がった彼女は、いったいどのように歌やボカロと出会って、どうして歌い手の世界へ飛び込んだのか。じっくり自身の話を語ってもらった。(曽我美なつめ)

「じゃあ私は歌い手やるわ」――友達との何気ない会話が生んだ“今”

――まず、音楽が好きになったきっかけはそもそも何でしたか。

それの井戸:記憶がないくらい小さい頃から歌が好きだったみたいで。小学校でも授業中に歌って、先生に怒られるような子だったんですよ。小学生の地声って高いじゃないですか。声も結構大きかったらしくて、その声で「かえるのうた」とかを歌っていたので、家族的にはだいぶ耳障りだったようで(笑)。音痴って言われることも多かったんですけど、それに負けじと対抗するようにもっと歌う、みたいな。おかげで小さい頃は自分のことを音痴だと思ってたんです。

――家族や周囲に音楽が好きな人は?

それの井戸:全然いませんでした。幼少期に「ピアノをやりたい」と母に言ったこともあるんですが、「飽きっぽいから止めておきなさい」って言われて。当時の私は、ピアノだけじゃなくてバレエとか、とにかくいろんな習い事をやりたい子だったんです。今思えば母が大正解だったんですけど(笑)。音楽が好きというよりも、目立ちたがりでしたね。大声で歌って、先生に褒められるのが嬉しかったんだと思います。家では散々うるさいって怒られましたけど。

――そこから、何がきっかけで歌い手やVOCALOIDの世界を知ったんでしょう?

それの井戸:友達が好きだった『カゲプロ』(『カゲロウプロジェクト』)が入口だったと思います。「如月アテンション」「夜咄ディセイブ」とかをオススメされて。昔から人に勧められたものは一度試してみるタイプだったので、そこから聴き始めた形です。

――そんななか、それの井戸さん自身に特に刺さった曲やクリエイターさんは?

それの井戸:ウォルピスカーターさんを知ってからボカロや歌い手文化にどっぷりハマりましたね。初めて聴いた時、あの高音にすごい衝撃を受けて。「こんな声どうやって出すんだろう?」と思ったし、今までテレビで触れた歌声や音楽の授業で習った歌い方とも全然違って、本当に驚いたんです。ボカロPさんや歌い手さんも、当時の感覚としては普通の一般人というか。芸能人とかじゃなく、学生だったり、普通に働いてる人たちなのに、「こんなすごい曲が作れるんだ」「こんなすごい歌が歌えるんだ」と感じたりして。同時に自分と比較して、「私はこんなことは絶対できない」と思って感激したのもよく覚えてます。

――かなり有名な歌い手さんでも、当時は今よりずっと身近な存在という感覚はたしかにありましたよね。

それの井戸:そこからいろいろボカロや歌い手さんを聴き始めて。ウォルピスさんのほかにも、まふまふさんやめいちゃんさん、ココル原人さんやあるふぁきゅん。さんとか、男女問わず高音がきれいでかっこいい歌い手さんが好きでしたね。曲は、OrangestarさんとかNeruさんの楽曲とか。人が歌うのは難しいようなボカロ曲を好んで聴いてました。歌い手さんをきっかけに原曲を知ることも多かった気がします。「自分の好きな歌い手さんが好きな曲はたぶん私も好きだよな」と思って、いろんな曲を歌い手さんたちから紹介してもらう感覚で聴いてましたね。

Henceforth / Orangestar - それの井戸(cover)
イドラのサーカス / Neru - それの井戸(cover)

――当時、ボカロ関連以外の音楽でお好きなものはあったんです?

それの井戸:女性アイドルも好きだったんですけど、世間で流行ってる音楽をあまり意識せず聴いてた感じでした。なので、音楽にハマる経験自体もボカロやウォルピスさんが最初でしたね。あとは当時ダンスをやっていたので、音楽単体よりはダンスとセットで聴くことも多くて。

――ダンスもやってらっしゃったんですね。

それの井戸:小学5年生の頃から、ずっと続けていて。最初はヒップホップを始めてジャズも少しかじったり、いろいろなジャンルに手を出していました。

――音楽やダンス以外に影響を受けたものなどはありますか。

それの井戸:どちらかというと外で遊ぶ方が好きだったので、ゲームやアニメはあんまりなんですけど、マンガは結構好きで。『週刊少年ジャンプ』とかの少年マンガ系をよく読んでましたね。配信でもたまにネタにするんですが、私は『BLEACH』がすごく好きで、自分に影響を与えた作品のひとつだと思います。どこが好きかと言われると難しいんですけど……今あらためて読み返すと「こんなメッセージ性があったんだ!」って思うこともよくあって。自分の理想の生き方というと大げさですが、価値観みたいなところに沁み込んでる感じがあります。キャラクター的には草鹿やちるちゃんの小さくてかわいいけど強いところにもかなり憧れがありました。

――それの井戸さんが歌い手を始めたのは2024年ですよね。リスナーからどういった経緯で歌い手をやろうと思ったんでしょう。

それの井戸:友達と旅行に行った時の会話がきっかけでしたね。帰りに、それぞれが「何か挑戦してみようよ」みたいな話になって。友人たちがいろいろ「これやってみようかな」と言い出すなかで、私の負けず嫌いな面が「友達を上回らなきゃ」と思って(笑)。出てきたのが、「じゃあ私は歌い手やるわ」っていう言葉だったんです。行動力で友達を驚かせようと思って、次の日にはもうレコーディングスタジオを予約しました。

――でも、それだけのスピード感で動けるほど具体的な歌い手の活動方法もすでに知ってたってことですか?

それの井戸:その場で調べたんですよ。「どうやってやるんだろう?」「まず歌録らなきゃいけなくて、その後にミックスをする? なるほど」みたいな。近しい友人に動画に詳しい子がいたので、いろいろ相談しながら作りましたね。歌い手をはじめようと思ったのが2024年2月の頭くらいで、初投稿が2024年3月末ぐらいだったのでかなり慌ただしかったです。

――ものすごい行動力ですね。当時初めて投稿してみた感想はいかがでしたか?

それの井戸:ミックスが初めて届いた時にいちばん感動しましたね。自分の声なのに届いたWAVファイルを聴いたら「えっ? 別の人?」って思っちゃうくらい。自分の普段の声と電話で聴く声が違う、みたいなのってあるじゃないですか。あれの最終進化系、というか。「ミックスってすごい!」と思いましたし、「歌い手さんってみんなこんな気持ちなんだ」って体感したというか。

――YouTubeshortsやTikTokにもアップされているミックスのビフォーアフター動画は、その気持ちがきっかけで作られたものです?

それの井戸:それもあります、「面白い!」と単純に思って。「ワンルームシュガーライフ」は、もともとツイキャスで開催された『歌い手フェスvol.2』に応募する用に録ったんですよ。配信中にミックスなしの生歌唱音源が流れるというイベントだったので、せっかくなら有効活用しようという意図もあって。結果的にかなり反響をいただけて、やっぱり皆さんにもこの違いを面白がってもらえてるのかな、と思いました。

【元JKが】ワンルームシュガーライフ 歌ってみた/それの井戸 - one chorus cover -

――ちなみに、今までアップされた動画や楽曲のなかで特に印象深かったものだと、どれですか?

それの井戸:「ファタール」はひとつのターニングポイントでしたね。反響が大きかったぶん、自分の歌を聴いてくださる方もたくさん増えましたし、その反面、どうしたらリスナーさんに喜んでもらえるかをこの動画からすごく考えるようになりました。視聴者を意識するようになったというか。一方で、「ネバーランド」も自分の歌い方を考え直したという点では大きな転機になりましたね。自分のなかで挑戦的な歌い方を試したことで、歌い方の幅を広げたらもっと歌が楽しくなるな、とあらためて感じて。いろんな歌い方にどんどん挑戦しよう、と思うようになった一曲です。

【 女性キーで 】ファタール 歌ってみた/それの井戸

――歌い方のお話ですと、普段はどういう部分を意識されているんです?

それの井戸:声質というよりは“歌ってみた”自体の話なんですけど、あくまで原曲との相乗効果になれるように、という感覚ですね。私は歌い手さんがきっかけでボカロ曲を聴き始めた身なので、自分が歌うことで生まれる旨味みたいなものを、おこがましいようですがちゃんと本家様に還元したいと思っています。でも、完全に自己流でなく、本家様の意図するところをなるべく汲み取って歌いたい、という部分もあって。そこが“歌ってみた”のいちばん根深い大事な文化だと個人的には思うんです。その葛藤を大事にはしてますね。

――なるほど。コラボ動画でも印象深いものがあったりしますか? それの井戸さん、日頃からかなり精力的に他の方ともコラボされてますよね。

それの井戸:コラボだと、「Ready Steady」ですね。その時まで、歌い手さんのコラボ動画は、それぞれが好きに歌って、そのよさを掛け合わせていくようなイメージだったんです。でも実際にやってみるとバランスがとても大事だってわかって、めちゃくちゃ勉強になりましたね。実は私、(ほかの歌い手さんのデータを聴いた時に)最初に録った自分のデータを全ボツにしたんです。いろんな話をさせてもらったあとに自分のを聴いて、「これじゃダメだ」と思って全部録り直しました。当初“歌ってみた”は自分の好きに歌ったものをアップする場所だったのが、コラボだと周りと協調して動画を作らなきゃいけない。それが最初はやっぱり難しかったですし、自分にとってもある種苦い経験だったんですけど、逆にアレがなかったら、私はたぶんもう“歌ってみた”をとっくに辞めてますね。

【 最強の3人で 】Ready Steady 歌ってみた/covered by それの井戸×おわり。×吐血

――自分にとってマイナスな経験でもある一方で、とても糧になったというか。

それの井戸:あの機会があったからこそ“歌ってみた”の深みがよりわかったというか。当たり前ですが、まだまだ勉強して成長していきたいと思えたいい経験になりましたね。全部終わったあと、あらためて“歌ってみた”って面白い!と思いましたもん。

――直近の『歌コレ』も、ご自身のソロとコラボの両方で参加してますよね。

それの井戸:宮守文学さんの「main dishが足りてない」を流水さん、mua.さん、KOMAINU.さんと一緒に歌わせてもらいました。ありがたいことに尊敬している方々と今回一緒にやらせてもらえて、「今までのコラボで経験したことを全部出し切ろう」と思って臨みました。ひとつの作品として完成度が上がるように、裏でも4人で話し合いながら進めて、その会議もとても楽しかったですね。4人で一緒のゴールに向かってみんなで走ってく、みたいな。私に足りないところを補ってもらいつつ、信頼できる方々とご一緒させてもらうことで自分も思いっきりのびのびやれて、完成した時は「早く投稿したい!」というワクワクでいっぱいでした。結構コラボは毎回楽しくやらせてもらっています。

――その反面、活動自体には当然大変だと感じる部分もあると思うのですが。

それの井戸:個人で活動している方は皆さん通る道だと思うんですけど、各所にいろんな連絡をしなきゃいけなくて。迷惑をかけたくないので早く返信したい気持ちもありつつ、余計な手間をかけないようちゃんと考えて返事しなきゃいけないじゃないですか。しかも普段の学生生活や仕事をこなしつつそれをやらなきゃいけない。私のまわりの歌い手さんともよく話してるんですよ、「マネージャーがほしい」って(笑)。ただ諸々含めて全部自分で管理することがゼロから作る楽しさでもあるんですよね。リスナーの時より、“歌ってみた”を一本作るの大変さをあらためて実感しますね。

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