澤田 空海理×脚本家・大野大輔、短編映画『紅茶と味噌汁』特別対談! 映像で拡張させる音楽世界

 澤田 空海理のニューアルバム『ひかり』をもとに作られた一本の短編映画。脚本を大野大輔、監督を吉田ハレラマが務めたこの『紅茶と味噌汁』に描かれるのは、ひとりのミュージシャンと画家の不思議な関係。元恋人同士であるふたりが繰り広げる会話のなかには、互いの芸術観やモノ作りへの姿勢が見え隠れする。彼らの言葉から浮かび上がるのは、クリエイターとして創作をしていく人間ならば誰もが抱くであろう葛藤や苦悩だ。アルバムをベースにするといいながら、単に楽曲の世界を映像化するだけにとどまらない、表現者としての根っこに深く潜っていくような映画ができ上がったところに、澤田 空海理という表現者の業があるのかもしれない。

 今回、映画の制作を記念して澤田と脚本家・大野の対談が実現。それぞれのスタンスと考えでモノ作りに向き合うふたりの対話もまた、澤田の音楽を理解するひとつのヒントになるかもしれない。(小川智宏)

『辻占恋慕』での憧れから始まった短編映画制作

澤田 空海理

――今回、なぜ短編映画を作ろうと思ったんですか?

澤田 空海理(以下、澤田):最初は、本当にアルバムプロモーションの一環として生まれた話だったんです。僕がもともと映画という媒体が好きというか、自分自身も映画に曲を書いてみたいな、なんて思ってたりしていたのもあって。そこから今回映画という形で一本作ってみることができないかと話をさせていただいて、僕のほうから「もし脚本をお願いできるなら……」と大野さんの名前を出させていただきました。

――内容的に「こういう映画にしたい」というイメージはあったんですか?

澤田:全然。むしろかなりファジーな感じで始まりましたね。自分は映像のプロでもなければ映画制作をしたこともないので、中途半端に足を突っ込むぐらいだったら確実に自分の信頼できる方たち、自分の好きなクリエイターさんにお任せしたほうがいいんじゃないかと思っていました。

――脚本を大野さんにお願いしたいと思ったのは?

澤田:『辻占恋慕』という大野さんが作られた映画を観た時に――その頃は個人的にいろいろあった時期で。自分と重なるものもあって、映画がすごく刺さったんです。だから、それから大野さんのお名前とその作品のことをすごくよく覚えていて。今回映画を作るうえで、なんとなく「男女の話になるのかなあ」とは思っていたんですけど、そこでふと浮かんだのが大野さんのお名前だったんです。ダメ元でお願いしてみたら、ご快諾いただけました。

――大野さんは話をもらったときにどんなことを感じましたか?

大野大輔(以下、大野):短編で、しかもミュージシャンの方から直接オファーをいただけたのは僕自身も初めての経験だったので、それがすごくありがたくて。なおかつ、自分の作風というものを気に入っていただけたうえでのお話だったというのもすごく嬉しかったです。「ぜひぜひ」という感じでお返事しましたね。

大野大輔

――もともと澤田 空海理というアーティストのことはご存じだったんですか?

大野:お話をいただくまで、お名前は存じ上げていなくて。ただ、澤田さんから過去の楽曲をお送りいただいて、とても素敵なアーティストさんだなと思いました。「ちょっと気合を入れて書かなきゃな」と思って作りましたね。

――アルバムがベースにあるとはいえ、細かい内容はどういうふうに作っていったんですか?

大野:いちばん最初にスタッフの方含めたみんなで集まって、「どういう方向性でいくのか」という打ち合わせをさせていただいて。その時に男女の、ワンシチュエーションの会話劇がいいんじゃないかという話になったんです。その具体的な内容は、澤田さんと監督の吉田(ハレラマ)さんと3人でお会いして決めていきました。

澤田:最後まで大野さんと監督のハレラマさんに頼りきりだったので、正直なところ、僕が中身に噛んだ感覚はなくて(笑)。僕からしたら、本当に口出しをする必要は全然なかったんです。カリスマに預けたものが期待以上のもので返ってくるわけですから、こちらから何かアプローチをする必要はないなと思って。本当にただただ楽しく過ごしていましたね。

『紅茶と味噌汁』場面写真

――アルバムの楽曲とも絡んで内容ができあがっていったんだと思いますが、大野さんは澤田さんの音楽を触れるなかでどんなことを感じて、それをどんなふうに脚本に活かしていきましたか?

大野:澤田さんの楽曲は、ものすごく繊細な世界観を描いているなと思います。それに、すごく赤裸々といいますか、自分自身のことを実直に、ダイレクトに作品に反映しているんじゃないだろうかという感じがしました。そのストレートにぶつける感じというか、そういう作風は脚本にも反映させたいなと思って、男女の赤裸々な会話劇を念頭に置いて(『紅茶と味噌汁』を)書きました。

――映画にはシンジとミカというふたりが出てくるわけですけど、どちらにも澤田 空海理がいるような感じがして面白かったです。

澤田:ああ。僕は脚本を読ませていただいて、もうずっと笑ってました。最初はシンジに目が行って……なんていうんでしょうね、「愚かだなあ」って。「こいつはずっとミカに甘えているんだろうな」と思ったんです。関係性やふたりの関係の名前が変わったりしても結局誇っているんですよね、自分の弱いところを見せる、みたいなことを。普段見せない弱いところを特定の人間に見せることに対して、ちょっと浸っているんだろうなと感じる瞬間が多々あって。そういう未成熟な雰囲気って、もしかしたら音楽家としては優れているのかもしれないけど、人間としては未成熟だと思っていつも笑っていた節があったんですけど、ふと冷静になった時に「これってもしかして自分のことなのでは?」と自覚する瞬間がいくつもあって、ちょっと不安になりました。「大野さんから見た澤田 空海理はこうなのかもしれない」と思ったりして(笑)。

大野:実は、澤田さんをイメージして書いたっていうわけでは全然ないんです。澤田さんが観てくださった『辻占恋慕』という作品とも通じるものがあるかもしれないんですけど、モノ作りをする人間の葛藤とか諦念。インディーズからメジャーに行った男と、それをちょっと軽蔑して眺めている、完全にアーティストとしての自我がある彼女の対比なんだけれども、お互い根底にリスペクトはあるというキャラクター像を作って、そこから会話を展開させていきました。

――ミカの口調が変わっていって、どんどんテンション上がっていくのも面白いですよね。

大野:ありがとうございます。

登場人物と澤田 空海理の気持ちのリンク

『紅茶と味噌汁』オフショット(佐々木藍&辻凪子)

――澤田さんもちょうどメジャーレーベルでリリースをして、いろいろなことを考えながら活動をしてきたところなので、映画に出てくるふたりに自分を重ねる部分もあったのではないかと思います。

澤田:僕は、ミカが結構正しいことを言ってるなって思っちゃう瞬間が多いというか。……いや、違うな。正しいというか、“羨ましい”のは確実にミカのほうなんです。メジャーに行く/行かないの前提のところには、考え方の話があるとして。年齢とともにどんどん創作の機会ややり方は変わっていくと思うんですけど、ミカはあの若さで――こう言うのもちょっと失礼かもしれないんですけど――早い段階で、自分の作ってるものが売れる/売れないとか、日の目にを見るものなのか、そういうものは実力とは関係がないというふうに、ある程度自分のなかで折り合いをつけているんだなって思うんです。でもシンジは、口では何とでも言えても、頭のなかでは売れることと自分の実力が若干関係あるんじゃないかと思っている。インディーズとメジャーの垣根に実力の差異とか、どちらが偉いとか、本当はないんです、けど、シンジがそれに気づくのにはすごい時間がかかるんだろうなって。

――まさにその芸術観の摩擦というか、相いれなさというものが、澤田 空海理の内面にも通じるものなんじゃないかと思ったんですよ。

澤田:おっしゃる通りです。

――でも、澤田さんから何かを伝えたわけではないのに大野さんがそれを描いたというのが面白いですよね。

澤田:そうですよね。たしかにインディーズとメジャーについての考え方のようなことは、お話のなかでも言っていないと思います。『辻占恋慕』を観た時にも思いましたけど、そういう葛藤について、個人的なことになりすぎず、ちゃんと外の人間がわかるように話しつつも、そのなかで少しだけひねくれているという見え方が僕はすごく好きで。大野さん自身も、きっとクリエイティブにおいて他の人には話せないような葛藤ってあると思うんです。でも、そういった部分は一旦置いておいて、ちゃんと外の人間にも伝わるように表現してくださるという面で、本当に僕から言うことは何もなかったです。

――シンジとミカの対立構造というのは澤田さんの音楽からインスパイアされたものでもあると思うんですけど、少なからず大野さん自身のなかから出てきたものという側面もあります?

大野:それはたしかにあると思います。僕はどちらかというとシンジみたいになりたいんです。飯が食えるようになればそれだけでいい。自分の作家性とかはどうでもいいという状況なので、ミカという人はその反面教師的な感じなのかもしれないですね。

――澤田さんの音楽もまさにそうなんですけど、クリエイターが自分で自分を殴っていくような感覚がこの映画にもあると思うんです。澤田さんが『辻占恋慕』を観て共感したというのも、クリエイターとしての共感という部分が多分にあったのではないかと。

澤田:今回は上映の方式上、不特定多数の方たちに触れていただくというよりは、僕のことをすでに知ってくださっている方が中心に観てくださると思いますし、そのなかにもモノを作っている方がいらっしゃると思うので。大野大輔ワールドと言いますか、大野さんの創作論みたいなものもこの映画には絶対に入っているので、そういうのに触れてほしいなって思ってますね。

――それと同時にこの映画は、澤田さんの音楽に込められている創作論や芸術観みたいなものが、大野さんや吉田監督という他者のフィルターを通すことによってまた違った形でアウトプットされているというものでもありますよね。そうやって自分のなかから出てきたものが、一度他者を通して再び作品となって触れた時に、どんなことを感じましたか?

澤田:最初に言った「恥ずかしい」が何より勝ちました。それは「自分の作品が映画になるなんて……」という恥ずかしさではなく、本当に「僕ってこう見えてるんだ」っていう。僕が思っている僕とは違うけど、外から見たら僕と同じように見えてしまう人を見た時に「うひょー! これは厳しいね!」みたいな(笑)。僕は愛らしいとは思えないけど、人によってはあれが愛らしく見えるのかなと思ってました。

――澤田さん自身が思う澤田 空海理と、外から見た澤田 空海理像の間には乖離がある、と澤田さんは思っている?

澤田:そうです。僕はどちらかと言うと、(周りからは)ミカのように見えていてほしいんですよ。ミカもミカで拗らせすぎているところはあるんですけど、シンジのほうがまだわかりやすくて、いい意味で商業に向いている部分と、クリエイティブへの向き合い方がまっすぐではない部分があるじゃないですか。そこがかわいいというか。でも、それって僕がそう思うならまだいいんですけど、他人にそう思われていたらめちゃめちゃイヤじゃないですか。他人に「澤田 空海理って、なんか作家やアーティストぶってるけど、蓋を開けてみると意外とひねりがないよね」と思われていたら、僕はもう恥ずかしくて死んでしまうと思う。そう見えている可能性も大だよね、って。

大野:僕自身、澤田さんとはまだ3回ぐらいしか直接お会いしていないんですけど、モノ作りに対してすごい誠実な方だなっていう印象がありましたよ。自分の作品に対して責任感というか、質の高いものにするっていう意識がものすごくある方だなって。そういう面へのリスペクトとして、自分もそういうふうにしていきたいなと思いましたね。

――きっと大野さんもその誠実さをお持ちだからこそ、澤田さんが共感したっていう部分もあるんでしょうしね。

大野:僕の場合はむしろ逆だと思うんです。自分のクリエイティビティっていうよりは、プロデューサーなり監督さんがいて、そこからフィードバックがあったらそっちに合わせちゃうし、「予算がない」「時間がない」と言われたらそれ相応のものとして合わせるようなことも多いから。そういう誠実さには憧れます。

『紅茶と味噌汁』オフショット

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