長谷川白紙×長久允『オレは死んじまったゼ!』対談 “軽薄”に対する音楽面でのアプローチ、作家としての使命も語り合う

ミュージシャンに一番求められるのは、作家としての必然性

ーー長谷川さんは、今作のエピソードの中ではどれが一番印象に残っていますか?

長谷川:第4話ですね。

――30年前に死んだ女子高生・小森凛(長澤樹)のエピソードですね。

長谷川:あれに2曲、あてて書いてしまって(笑)。そんなことやるべきじゃなかったと思うんですけど。作業数が格段に増えてしまって。でもどうしても2曲、あてたい曲があったんです。

長久:僕も4話が好きで、つい4話を熱く宣伝しちゃうんですけど(笑)。僕はやっぱり、自分の精神年齢がハイティーンで止まっている感じがしていて。今回もなんというか、女子高生に……なりたいというか。あそこの感情の機微とか動作とか強さとか、一番しっくり書ける気がする。めちゃくちゃ。だから解像度がすごく高くなっていくんです。

長谷川:トラップのビートになる劇伴があるじゃないですか。廊下を後ろ向きに歩いているロングショットにつけた劇伴なんですけど。そこでシンセのパラパラの音色を再現するの、ものすごくハマってしまって。もう最高だった時期があって(笑)。こうするとめっちゃパラパラっぽいぞっていうノウハウがわかり続けている時期があって。最近、曲に一回はパラパラのシンセを入れるっていうのをすごくやっていて(笑)。

長久:あの廊下の曲、めっちゃ良いですよね。

長谷川:「~~~(m- -)NO CHANCE TO DIE」ですね。

長久:劇中の凛のセリフに「(パラパラは)フリをいかにキレよく決めるか、で、それに反比例するように、顔は、いかにクールに、無表情にするか」「パラパラの真髄は、大変さと、表情が、正反対だから好き」というのがあって、本当にその通りなんですけど。稼働量に対して顔が無表情すぎるってことが、ある種の軽薄さと一緒なんです。

長谷川:すごいそのセリフで食らったんですよね。その通りです。

長久:生きることの熱量に対して表面はゼロでやっていく風に見せることは、僕の作品の核とかなり近いところがあるので。市民センターの前でパラパラを練習し続ける女子高生の物語っていうのは、僕の作っているフィルモグラフィーの中のど真ん中を行くモチーフではありますね。

長谷川:あの劇伴は、最後にパラパラの音色がゆがんで出てくるんです。内的に反復され続けてきた怒りとか喜びだったりとか爆発的なエネルギーがあるんだけど、それをとどめて見せないようにするっていうのが、語られていたパラパラの美学だったんですけど。それをワケのわからない形で発露させる場合にはどういう音像が適しているのか。あのシーンはそういうシーンだと思ったので。やっぱり私の中で、トラップのビートが怒りの象徴なんですよね。なのでトラップの音像を使って、パラパラのような音色が挿入されるという構造が一番適しているだろうなと思って。

長久:「怒り」ということで言うと、僕も、全ての企画の立ち上げは怒りから作ったりしているんです。物事に対して、すごくイラついていたり、怒りを感じた時にモチベーションになって物語を書きだしたりする。第4話は、しっかり怒ってはいるというか。例えば誰もソックタッチを持っていないことに対して怒っているとか。

長谷川:(笑)。

長久:そういうのが、音的にも物語的にも、一番漏れ出る形で放出していているのが4話かなと。知らないところから、わーってあふれ出ている感じがしていますね。

長谷川:映画とか、音楽も割とそういう傾向があると思うんですけど。これが何で、これが何で、これが何のためにあったのかっていうのをすごく解決させたがるというか。

長久:そうですね。

長谷川:解決してる方が良いもののように脅迫されている感じがして。

ーー辻褄を合わせている?

長谷川:そうです。そういう観念があると思うんですけど。長久監督はずっと一定して、解決しないことであるとか、そもそも解決することなんてあるのか? みたいなテーマを取り扱っているように見える。第4話が一番好きなのは、解決しないということは何もしないということではなくて、それ自体にエネルギーがあるということがわかるエピソードだからなんですよ。それに私もすごく共感できて、音楽に力が入ったというのはありますね。

ーー辻褄を合わせられない自分を抱えている。

長谷川:私は、世の中の殆どのものは辻褄がないと思っているので。必然性は何もないんですよ、私が私であることに。それはある種当然なんです。作家というか、ミュージシャンに一番求められるのは、作家としての必然性なんです。なぜ自分がこれを表現しなくてはならなかったのか、という。例えばですけど自分の出自であるとか、自分の身体であるとかに、なぜか当然のように(必然性を)求められることがままあるんですよ。ただそんなに単純な関係を結んでいるわけではないと思っていて。ある作品と作者というのは、一本線で結ばれているものではないと思っているんですよ。そこには何の合理性もない要素もあるし、かと思えばまったくもって合理的なものもあったりして。それを提示しなおすこと自体が、規範を明るみに出す行いだと思っています。長久監督の他の作品にもそれと同じものをずっと感じるんです。軽薄さをあえて前面に出すことで、この世で今まで軽薄ではないと思われていたものが、実は結構こじつけだったという、そういうことを表に出していく姿勢があるのはすごいと思います。

ーーなるほど。今回のサントラで「ユニ」だけ長谷川さんの過去曲が使われていますね。

長久:最初に撮り終わった後、意味合いが分かりやすいように既存曲をあてて、ここはこういう意味合いでこういう曲をあてているから、それを解釈してもらって、この尺で、劇伴を作ってくださいって(長谷川に)お渡しして作業を進めていたんですけど、その時に「ユニ」がとにかく好きで使ったんですけど。

長谷川:ありがとうございます(笑)。

長久:そういう意図で書かれていないのかもしれないけど、何か、どうしてもあの曲が「暮らし」に感じるんですよ、僕は。

長谷川:あぁっ!

長久:暮らしの香りがどうしてもする。

長谷川:合っています(笑)! 合っています。私が想定していたことにすごく近かったので。びっくりしました。もちろんそれ以外にも読みがあって良いんですけど。私が思って作っていたことにすごく近い。

長久:生活とか、暮らしの香りとか、生きて、淡々と日常を生きていく、続けていくこと、そういう感覚を何となく手触りとして感じ取っていて。

ーー「ユニ」の曲の断片がドラマのあちこちで使われている。それは暮らしの象徴として。

長久:各話、エモーショナルな話がありつつも、最後はやっぱり暮らしに……毎回暮らしに帰結していくので、そういう時に「ユニ」はすごくぴったりあっていて。

ーー効果音的にも使えるし、なおかつ意味を伝える歌ものとしても機能している。

長久:そうですね。ある種、不本意かもしれないですけど、SE的でもあるというか。ノイズから始まったりとか、フェイクから始まったりとかするので。

長谷川:全然、不本意じゃないです。

長久:効果音の意味合いもやっぱり強いから、白紙さんの曲、特に「ユニ」は。それ発信で、暮らしに「ユニ」があるとベストな曲なので。使わせていただきました。

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