映秀。 閉塞的な日常からの解放 カツセマサヒコが紐解く、共感を呼ぶ言葉のリアリティ

 朝起きて、支度をして、学校や会社、決められた場所へ向かう。

 その行動に、自分の意思はほとんど含まれない。「いつもと同じだから」「そうしなきゃダメだから」「出席日数足りなくなるから」「欠勤しても仕事は止まってくれないから」。いろんな理由があって、同じような理由を持った人たちと、同じ電車に乗る。

 そんな毎日が、ある日突然、しんどくなる。

 心は自由を求めて、体を突き破ろうとする。せめて何か、気分転換になるものを探そうとする。車窓から見える景色はいつも通り。スマホを覗けば重たい正義。いつも誰かが何かに憤っていて、成功した人たちだけが、悠々自適に暮らす姿が見える。

 たくさんの人に囲まれているのに、このまま独りなんじゃないかと不安になる。明日も今日の繰り返しなんじゃないかと恐怖したり、明るい未来が見えなかったりする。息苦しくなり、嫉妬や怒りや悲しみが、シクシクと自分の内側に伝染していく気がする。

 そんな風に、日々があまりに窮屈な時。一緒に苦しんだり、迷ったり、憤ったり、背中をさすってくれたり、時に叱ってくれたりするのが、映秀。というアーティストの楽曲や歌詞の魅力だと、私は思っている。

瞼を毎朝開ける度
全て辞めたい気持ちの波
うんともすんとも言わぬ神
でも争いたいよね
あと弐ミリ
(「第弐ボタン」)

 前作から一年も経たずうちにリリースされる二作目のフルアルバム『第弐楽章 -青藍-』の一曲目を飾る「第弐ボタン」のワンフレーズだ。アルバムタイトルにも込められた“青さ”を存分に感じられるメロディに乗せて、楽曲の主人公は、自身の生活や生き方、自分そのものについて、迷いながらも前に進んでいく。

 そう、彼の綴る言葉の多くは“迷い”を抱えている。自分自身が何者なのか、何になるべきなのかを考えたり、未来への期待と不安を繰り返したり、それにも飽きて空虚な日常を諦めたくなったりしている。

 哲学的な歌詞は宇宙の始まりを考えるように壮大にも思えるし、夜眠る前の不安をそのまま吐露しているようにも感じる。

あーあー毎日疲れたな
答え無い「何故」ばかり掘り下げてさ
かんたんなことをむずかしく
難しく捉えては背伸びする
(「脱せ」)

 生きる意味を探したり、将来どうしたらいいかと考えたりするのは、モラトリアム期間の人間によく見られる行動だ(もしくは、社会がそう考えさせるようにできている気もする)。事実、映秀。は現役大学生であり、彼が普段、身を置く環境は、まさに迷い、悩む若者たちで溢れている。その世界こそが、彼にとってのリアルだ。

 しかし、蓋を開けてみれば幾つになっても迷子なのが人間というもので、別に三十代になったら迷わなくなるのか、四十代になれば不惑なのかと言われれば、決してそんなことはない。みんながみんな、いくつになっても自分に迷い、社会に戸惑いながら生きている。

大人になるほど 口癖は大丈夫
自分に嘘付き強くなる が脆くなる
(「脱せ」)

 先行配信された本作のリードトラック「脱せ」(だっせ)の歌詞が、心を置き去りにしたまま成長した自分の現実に鈍く刺さる。大人になり分別がつくと、多くのことを諦め、感情を殺し、不感症になっていく。その方がラクだからだ。

映秀。「脱せ」Music Video

 でも映秀。は、そこに抗う。戸惑うこと、迷うことを否定しない。

HANDS UP 惑うのいつだって
自分の気持ちわからない時ばかり
Ah それだけなのに 終わらない
(「失敗は間違いじゃない」)

子供の頃は確かさ
前しか見えずに駆けていた
大人になるとそうだな
横ばかり見てる僕がいた
(「忘れ物」)

 思えばデビュー前からの人気曲である「東京散歩」でも〈わからないことを話していたかった〉と歌っているように、“わからない気持ち”を歌や詩にすることが、映秀。というアーティストの特異性かもしれない。そして、わからないこと(=正解がないこと、断定できないこと、分析しきれないこと)を描く行為は、極めて文学的な行為とも言える。

映秀。「失敗は間違いじゃない」Music Video

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