小説『モンパルナス1934~キャンティ前史~』エピソード1   村井邦彦・吉田俊宏 作

 村井邦彦と吉田俊宏による小説『モンパルナス1934〜キャンティ前史〜』エピソード1は、1971年1月のフランス・カンヌから幕を開けるーー。(編集部)

村井邦彦×松任谷由実「メイキング・オブ・モンパルナス1934」対談
『モンパルナス1934』特集ページ

エピソード1
カンヌ ♯1

 コバルトブルーの地中海が雲間からのぞくと、着陸態勢に入った機内のあちこちから感嘆の声が上がった。冬の暗い北ヨーロッパから南仏を訪れる人は、誰もがまぶしすぎるくらいの太陽と海の青の深さに感動する。タンタンの表情にも少しだけ輝きが戻った。コート・ダジュールの明るい陽光が彼女を照らし、ツルンとした白い顔をプラチナ色に染めていた。
 ニースの国際空港を出たタクシーはタンタンと花田美奈子さんと僕を乗せ、西に向かう海岸通りをのろのろと走った。ゴーロワーズかジタンのような黒煙草とすえたワインの臭いが混ざり合ったフランス独特の臭いが染みついた旧型のプジョーだ。
 美奈子さんが臭い、臭いと言うから、僕は仕方なく窓を全開にした。通りの至るところにミモザの黄色い花が咲き乱れている。この花の放つ爽やかな甘い香りのおかげで、古い因習のようにこびりついていた臭いもどこかに飛んでいった。
「村井君、南仏の人たちはミモザを『冬の太陽』って呼んでいるの。春の訪れを告げる花なのよ」
 タンタンを心配して一緒に来てくれた美奈子さんが言った。銀座の文壇バー、ラ・モールのマダムで、マキシム・ド・パリをはじめ数々のレストランをプロデュースした彼女はタンタンこと、川添梶子さんの親友であり、良き理解者であり、僕と同じようにキャンティの常連でもあった。
「冬の太陽ねえ。うまいこと言うなあ。日本でいえば桜にはまだ早いから、梅か椿かな」
 僕は助手席から振り返って言った。タンタンはずっと海を見つめていた。春の訪れを感じてくれているだろうか。それともまだ心は凍てついたままだろうか。

「カンヌだわ。何年ぶりかしら」
 アンティーブ岬を過ぎてカンヌの街並みが見えてきたとき、タンタンが口を開いた。目が輝いている。美奈子さんが僕の顔を見てニヤリと笑い、大きく2度うなずいてみせた。「いい調子、うまく行っているわね」と目顔で語っていた。
 川添浩史さんが1970年1月に亡くなった後、タンタンの落ち込みようは尋常ではなく、1年たっても回復の兆しは見えなかった。
 タンタンはこのまま死んでしまうのではないか。僕は本気でそう思っていた。少しでも彼女の気晴らしになればと考えて、毎年1月末にカンヌで開かれていた国際音楽産業見本市のMIDEM(ミデム)に行こうと誘ったのだった。タンタンが珍しく素直にうなずいてくれたのは、カンヌが浩史さんとの思い出の土地だからに違いなかった。

 尻上がりにエンジンの調子を上げた旧型のプジョーはクロワゼット大通り沿いにあるマジェスティック・ホテルに思ったより早く到着した。アラン・ドロンとジャン・ギャバンが共演した映画『地下室のメロディー』で、大金持ちの実業家になりすました大泥棒のギャバンが泊ったのもこのホテルだった。
「ボンジュール、ムッシュー・クニ、また会えてうれしいよ。1年ぶりだね。きれいな女性を2人も連れて、今度はずいぶん景気のいい旅だなあ」
 フロント係のダリオが冬の太陽のような笑顔で迎えてくれた。僕は前年、初めてMIDEMに参加してマジェスティックに泊まったのだが、このイタリア系の気のいい男とすっかり仲良くなっていた。僕は25歳で、ダリオもほとんど変わらなかった。お互いに若いというだけで意気投合できるのは、若者の特権だった。彼のおかげで今回の予約もすんなり取れたのだ。
 チェックインの手続きをする間もなく、タンタンは海が見たいといって歩きだした。美奈子さんも荷物を放り出して後を追った。
 やれやれ。僕が肩をすくめると、ダリオが真っ白な歯を見せて、「後は僕に任せて。ムッシュー・クニも行った方が良さそうだ」と背中を押してくれた。
 マジェスティックのプライベートビーチに出ると、美奈子さんが1人でベンチに腰かけていた。
「あれ、タンタンは?」
「あっちよ」
 タンタンは毛皮のコートを肩にかけ、波打ち際を歩いていた。僕の気配を背中で感じたのか、長い髪をなびかせてくるりと振り向いて言った。
「あの人はね、シローはねえ、カンヌが大好きだったのよ」
 川添浩史さんの本名は紫郎で、近しい人や古くからの友人はシローと呼んだ。後妻となったタンタンも同じだった。
 黒髪が潮風に揺れていた。毛皮の下のニットのワンピースがタンタンの体の曲線を浮き彫りにしている。僕は彼女の彫刻の師、エミリオ・グレコの作品『湯浴みする女』を思い出した。タンタンがモデルをつとめ、グレコが連作したブロンズ像で、その一つが日本橋白木屋の前に置かれていた。
 グレコはタンタンに弟子以上の感情を抱いていたらしいが、彼女は師を尊敬してはいても、男として見る気はなかったようだ。
 タンタンはグレコ門下で一緒に彫刻を学んでいた年下のイタリア人と結婚するのだが、嫉妬深い夫の暴力に耐えきれず、1歳半の娘を残して逃げ出してきたのだった。彼女が娘の思い出を断片的に語るのは何度か耳にしたことがあるが、詳細を聞いたことはなかった。残してきた実の娘への愛慕がどれほどのものか、若い僕に分かるはずもなかった。
「いったんホテルにチェックインして着替えようよ。MIDEMの会場でヘンリー・マンシーニとアイク&ティナ・ターナーのコンサートがあるんだけどさ、ドレスコードがブラックタイなんだ」
 タンタンは聞こえないふりをして、アルビノーニのアダージョのメロディーを小さな声で口ずさんでいた。彼女の大好きな曲だった。こうして歌うときは、いつもの落ち着いた低い話し声から一転して、少女のように高く澄んだ声になる。「六本木の女王」などと書き立てて揶揄している週刊誌の記者たちは、こんな川添梶子を見たら仰天するに違いない。

1970年代のパレ・デ・フェスティバル

 そろそろ日の暮れる頃、僕たち3人はMIDEMの会場となる旧パレ・デ・フェスティバルの開門を待っていた。幅の広い高い階段の上にホールの入口がある。その階段や踊り場に入場を待つ人が集まるのだ。段差があるから、誰がどこにいるかよく見渡せる。
「あら、ここじゃない? ほら、川添さんや勅使河原さんたちが並んで写っていた写真よ。ここで撮影されたんじゃないの」と美奈子さんが言った。
 当時のパレ・デ・フェスティバルは今ほど広くなかったが、毎年5月にカンヌ国際映画祭が開かれていた。川添浩史さんは1964年に勅使河原宏監督の映画『砂の女』を紹介するためカンヌを訪れ、持ち前の社交術を駆使して審査員特別賞受賞に大きく貢献している。監督や主演の岸田今日子さんだけでなく、後に小澤征爾さんと結婚するモデルの入江美樹さん、まだ女優の卵だった20歳の加賀まりこさんといったキャンティの常連たちを引き連れてカンヌ入りした川添さんは、全員に和服を着せて各国マスコミの注目を集めたのだった。映画誌か、新聞だったか、何かに載った彼らの集合写真は僕も見たことがあった。
「そうそう、確かにこの場所よ。シローにとってカンヌは自分の庭みたいなものだったの。何しろパリに留学するために船でマルセイユに着いたのに、まずパリじゃなくてカンヌに来て2か月もバカンスを過ごしたくらいなんだから。留学中も毎年、夏にはカンヌに来ていたそうよ。だから勅使河原さんと一緒に大勝負に出る舞台として、他のどこでもなくカンヌを選んだのは必然だったんだと思うわ」とタンタンが答えた。
「川添さんがロバート・キャパに出会ったのもカンヌだったんでしょ」と美奈子さん。
「そうらしいわね。シローが井上清一さんと一緒に訳したキャパの本にもそんな話が……」。そこまで言ったところで、タンタンは僕の姿をまじまじと見てプッと噴き出した。外国人が大勢いるところでは委縮しないで堂々と胸を張っていなさいと教え込んだのはタンタンで、僕はそれを忠実に実践すべく、胸を張って周囲を見渡していただけだったのだが。
「村井君、あなた、そんなに胸を突き出していたら、鳩と間違われるわよ」と美奈子さんから小突かれた。
 マンシーニやティナ・ターナーが登場する前に会場をどよめかせたのは、客席の最前列に陣取ったエディ・バークレイと彼の仲間たちだった。ドレスコードを笑い飛ばすようにバスローブ姿で現れたのである。僕はエディとは旧知の間柄だった。そもそも作曲家として忙しい毎日を送っていた僕がアルファミュージックという音楽出版社を始めることになったのも、川添浩史さんに紹介されたバークレイ音楽出版社から『マイ・ウェイ』の日本国内の出版権を買ったのがきっかけだった。ポール・アンカが英語の歌詞をつけ、フランク・シナトラの歌で世界的に大ヒットする前の話だ。
「何よ、あの人たち」と美奈子さんが眉をひそめて言った。
「僕がお世話になっている人だよ。クインシー・ジョーンズやミシェル・ルグランのレコードを出している会社の社長さ。目立つのが好きで、いつも突飛なことばかりやって喜んでいるんだけど、ちょっとあれはやりすぎだね」と僕は苦笑いしたが、周囲の喝さいを浴びてエディはご満悦だった。

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