山口百恵の楽曲が持つ“褪せることのない一瞬の輝き” 時代性を捉えたサウンドと芯の通った歌声の魅力
一瞬の輝きだからこそ魅了される山口百恵の歌声
1979年のアルバム『L.A.BLUE』は、フュージョンがコンセプト。文字通りロサンゼルスでレコーディングされた作品で、こちらも現地ミュージシャンが参加しており、エルヴィス・プレスリーのバックバンドを務めていたドラマーのロン・タットなどが演奏している。LAの夜景とネオン管風のタイトルロゴによるジャケットも印象的で、本人が写っていないジャケットは当時のアイドルとしては異例だった。なかでも「A GOLD NEEDLE AND SILVER THREAD」では、ゴスペル風コーラスとムーディなサックスが楽曲の世界観をより広げている。
そんな中、異色作として知られるのは、テクノを取り入れた1980年の『メビウス・ゲーム』だろう。ピコピコ音のシンセが鳴り響く「テクノ・パラダイス」は、まるでスペースオペラのような壮大さ。そこからノンストップで「恋のホットライン」へと繋がっていくという、まるでDJプレイのような演出も施されている。さらに宇宙空間的な広がりを感じさせる「E=MC2」なども収録されている。
ほかにも、名曲「秋桜」を収録した“花”をテーマに日本的な情緒を表現した『花ざかり』(1977年)、浜田省吾が作曲した「宇宙旅行のパンフレット」を収録した宇宙がテーマの『COSMOS(宇宙)』(1987年)、井上陽水が提供した「Crazy Love」を収録したラストアルバム『This is my trial』(1980年)など、どのアルバムもサウンドにはその時々の時代性が反映され、驚きと発見に満ち溢れている。
山口百恵が活躍した1970年代は、ディスコ、ファンク、ハードロック、テクノポップ、AOR、フュージョンなど多彩な音楽ジャンルが入り乱れた時期。そうした洋楽のトレンドを巧みに取り入れながら、それらをしっかり歌謡曲として成立させた彼女の唯一無二の歌声とアーティスト性の高さには改めて驚かされる。それを支えたのは、彼女の歌と音楽に対する情熱だろう。当時のアイドル歌手の多くは多忙を極め、自分の歌録りだけで精一杯だった。しかし山口百恵は、歌録りが行われないオケ録りにも顔を出し、自分の音楽と向き合っていたという。その上、集中力も桁外れで、どんな曲もわずか数テイクで録り終えたそうだ。多くの編曲を担当した萩田光雄氏は、弱冠20歳の彼女が放つ圧倒的なオーラを前に、声をかけることさえはばかられたと述べていた。今思えば約7年という短い現役時代を、濃密に、風のように駆け抜けた山口百恵。そこにはあるのは、時代を経ても褪せることのない一瞬の輝きだ。
■榑林 史章
「山椒は小粒でピリリと辛い」がモットー。大東文化大卒後、ミュージック・リサーチ、THE BEST☆HIT編集を経て音楽ライターに。演歌からジャズ/クラシック、ロック、J-POP、アニソン/ボカロまでオールジャンルに対応し、これまでに5,000本近くのアーティストのインタビューを担当。主な執筆媒体はCDジャーナル、MusicVoice、リアルサウンド、music UP’s、アニメディア、B.L.T. VOICE GIRLS他、広告媒体等。2013年からは7年間、日本工学院ミュージックカレッジで非常勤講師を務めた経験も。