角銅真実、寺尾紗穂、菅野みち子......聴き手のイマジネーションを膨らませる、女性シンガーたちの“親密な歌”
角銅真実の『oar』、寺尾紗穂の『北へ向かう』、菅野みち子の『銀杏並木』。この3枚をまとめて紹介したいという編集部の企画意図はよく分かる。音楽性はそれぞれ異なる三者だが、皆自分だけの確固たる世界を持っており、“孤高の”ソロミュージシャンという形容がしっくりくる。そして、特定のムーブメントやシーンに流されたり埋没したりせず、個が個のままに我が道を着実に歩いてきた、という印象もある。本稿では近いタイミングでリリースされた3作について触れ、共通点や相違点を炙り出していこうと思う。
角銅真実:孤独と内省に浸る歌
角銅真実は東京藝術大学の器楽科 打楽器専攻出身で、同学科の後輩にあたるドラマー、石若駿のSONGBOOKプロジェクトにボーカリストとして参加している。メジャーデビュー作となる『oar』には、その石若がピアノで参加している他、西田修大、光永渉、マーティ・ホロベック、中村大史など、これまでになく多くのミュージシャンが関わった。結果、ラフスケッチ風だった過去2作に比べ、丁寧に作りこんだ様子が端々から窺える。田島貴男、原田知世、原田郁子とのコラボレーションはもちろん、ceroのサポートを務めたことも歌ものと真正面から向き合う契機になったのだろう。筆者が角銅にインタビューした際に、「初めて積極的に人に聴いてほしいっていう気持ちになっていたんです」と述べていたのが印象的だった。
とは言え、彼女はこのアルバムの収録曲について「ポップスではない」とも断言していた。曰く、「私の思うポップスの勝手なイメージは、共感の音楽なんです。でも、私の音楽は聴いていてひとりになるもの」だと。また、1st アルバム『時間の上に夢が飛んでいる』の曖昧模糊なジャケットが象徴しているように、虚空を漂流しているような浮遊感も角銅の音楽の特徴。奇しくも本作でカバーしているフィッシュマンズがそうであるように、孤独や内省に浸ることを許容する、そんな音楽だと思う。重力から自由であり、調性に縛られないしなやかさを持ち合わせている、とでも言えばいいか。
ちなみに角銅は今年1月にロバート・フリップの愛弟子であるアルゼンチンのギタリスト、フェルナンド・カブサッキらと共演。ライブでは絶妙なタイミングでオノマトペを発したり、ワイングラスの淵を撫でて音を出すなど、即興にも慣れているところを見せていた。前衛的で尖った音楽にも触れ、インスタレーションも作ってきた彼女が、灰野敬二を敬愛しているのは腑に落ちる話ではないだろうか。
寺尾紗穂:ノスタルジックかつ揺るぎのない普遍性
来年デビュー15周年を迎える寺尾紗穂は、シンガーソングライターであると同時に『原発労働者』などの著作を上梓した文筆家でもある。ミュージック・マガジンでは『寺尾紗穂の戦前音楽探訪』という連載をしており、2016年には日本各地のわたべうたを歌った『わたしの好きなわらべうた』というアルバムもリリースしている。いわば、温故知新を地で行くミュージシャンとも受け止められるだろう。
確かに、寺尾の音楽には童謡や唱歌のような素朴でシンプルな曲が多く、ノスタルジーを感じさせる瞬間も多々あるのだが、一方、サウンドメイキングはコンテンポラリーで先鋭的ですらある。『わたしの好きなわらべうた』も単なる懐古趣味ではなく、寺尾ならではの和音のあてはめ方や創意工夫に満ちたアレンジがなされている。
そんな寺尾の最新作『北へ向かう』は、寺尾と「冬にわかれて」というユニットを組んでいるあだち麗三郎や伊賀航を筆頭に、マヒトゥ・ザ・ピーポー、キセル、U-zhaanなど多くのミュージシャンが参加。これまでの活動で信頼を培ってきた彼らとの緊密な連携によって、鮮烈なサウンドを獲得している。また、歌詞の面では相変わらず情景描写が巧み。「北へ向かう」は寺尾の父が亡くなった日に車窓から見た風景を綴った極私的な歌詞だが、そんな背景を知らずに聴いても、車窓から見た曇り空がありありと目に浮かぶ。この曲に限らず、寺尾の曲は個人的なことを歌っていても、そこに揺るがない普遍性がある。これは彼女の強みだろう。
サウンド面では、蓮沼執太がアレンジした「やくらい行き」はボン・イヴェールを想起させるし、「君は私の友達」はミニマルなピアノがどこかスティーヴ・ライヒのよう。おそらく本人は意識してないと思うが、そうした想像を喚起するという点においても、彼女の音楽がポップミュージックとしていかに懐が深いことが分かる。