金子厚武の「アーティストの可能性を広げるサポートミュージシャン」

Yasei Collective 松下マサナオ、2020年代に託すミュージシャンのあり方「外に出て何でもチャレンジしたらいい」

 バンド活動の一方で、メンバー個々でも活躍し、プレイヤーとして「ジャズ」を背景に持ちつつも、ジャンルレスなアウトプットを続け、2010年代を通じて国内外のミュージシャンと関わりながら第一線を歩んできたアーティスト……2010年代から2020年代へという時代の転換点で、この10年を「サポート」というキーワードで振り返るにあたって、Yasei Collectiveほどうってつけの存在は他にいない。

  留学先のロサンゼルスから帰国後、松下マサナオを中心に「一人でも歩いていける者の集団」として、中西道彦と斎藤拓郎とともに2009年にスタートしたYasei Collectiveは、多数のライブアルバムやオリジナルアルバムを発表しつつ、NakamuraEmi、二階堂和美、藤原さくら、いきものがかり、あいみょん、KID FRESINOから東京03に至るまで、ときにバンドとして、ときにメンバー個々で、実に幅広いアーティストの作品やライブに関わってきた。他ではありえない多彩にして豪華なゲストが顔を揃えた10周年イヤーのキックオフパーティーは、彼らの特異性を改めて示すものであり、そのあり方は2020年代の指針にもなるはず。様々なアーティストとの関係性を紐解きつつ、松下マサナオに10年の歩みを語ってもらった。(金子厚武)

「Kneebodyはヤセイの大きなモデルプランでした」

――Yasei Collective(以下、ヤセイ)は2009年の結成で、「一人でも歩いていける者の集団」という意味でバンド名が付けられたそうですが、今振り返ると、非常に2010年代的なミュージシャンのあり方を示すネーミングだったと思うんですよね。

松下:今はむしろ「一人でも歩いていける」っていう考え方を持ってないと、音楽を続けるのは厳しいんじゃないかと思います。もちろん、そのやり方にはいろんなスタイルがあってよくて、「俺たちはこのバンドしかやりたくないから、それをやるためだったら、他の仕事をするのも厭わない」という考えの人も多いと思うんです。ただ、自分が今まで培ってきたもので飯食ってけたら一番いいと思ったときに、俺にとって一番身近で、ずっと続けたいと思ったのがドラムだったっていうだけで。

――だからこそ、自分のバンドとは別に、仕事としてもドラムを叩いてきたと。

松下:でも「嫌だ」ってことに対する拒否反応は、うちのメンバーもそうだし、俺の周りにいるミュージシャンもみんな強いと思います。何でもかんでもやるわけじゃなくて、ちゃんと自分のブランディングも考えて、純粋にやりたいと思ったことか、やった方がいいと思ったことだけをやる。世代に関わらず、かっこいいなと思う活動をしてる人たちは、そこをすごく大事にしてますね。

――そういうミュージシャンとしての哲学が養われたのは、やはりロサンゼルスへの留学の経験が大きかった?

松下:ロサンゼルスに行ったことはもちろんすごく大きかったんですけど、「ダサいことをやるのは恥ずかしい」っていう感覚は、その前の大学のサークル時代(和光大学のジャズ研)ですごく植え付けられました。Gentle Forest Jazz Bandのリーダー(ジェントル久保田)、Yasei Collectiveのギターの(斎藤)拓郎、ZA FEEDOの沖メイ、当時SAKEROCKのハマケン(浜野謙太)とかも、みんなそこにいたんです。当時は泥水すすって頑張って生きてるような状況だったにもかかわらず、反骨精神とも違う、変なプライドがあったんですよ。「俺たちは他とは違うんだ」みたいな、勝手な選民思想が当時はあって、それが嫌だったんだけど(笑)、そこにいたことで研ぎ澄まされた部分は確実にあった。「クリエイティブなことをやっていくんだ」っていう基本姿勢は、完全に第二音楽室っていう汚い部室で植えつけられましたね。ただ、当時は卑屈な人間で、シャイだったし、人と全然しゃべれなかったのが、アメリカに行ったことで、オープンになったんです。

――ヤセイの結成に関しては、Kneebodyの影響が大きかったと常々話していますよね。彼らはまさにバンド活動の一方で、著名なアーティストのサポートで名を上げたわけで。

松下:Kneebodyはやめちゃいましたけど、カーヴェー(・ラステガー)なんてリンゴ・スターとやってますからね。まさに、僕はあれがやりたいと思ったんです。バンドでかっこいいことをやって、たとえそれがなかなか認知されなかったとしても、サポートで大きなことをやることで、それがバンドにも返ってくる。そうやってレピュテーションがついてくれば、上手くいくんじゃないかって。なので、Kneebodyはヤセイの大きなモデルプランでした。あのバンドはホント全員すごいんですよ。

――特にどんな部分に惹かれたのでしょうか?

松下:いわゆるジャズバンドではないんだけど、ジャズメンと同じクオリティで、同じボックスで戦えるだけの技術がある。全員が音楽的なタレントで、それが集まったときに、爆発的に良くなる。しかも、ただのセッションじゃなくて、ちゃんとバンドとして昇華されている。80年代から90年代までのジャズのバンドって、とにかく有名なジャズメンが5人くらい集まって、スタンダードをやって、それぞれのソロを聴く、みたいな感じだったけど、そうじゃない形が00年代に確立されていったんですよね。ジョシュア・レッドマンとかもそうだけど、バンドっぽいジャズが増えて、その中でも、白人のやってるバンドっぽい感じが一番出てて、でもちゃんとジャジーでっていうのが、俺にとってのKneebodyだったんです……Kneebodyを語り始めると長いですよ(笑)。

――今のヤセイのメンバーは、藤原さくらさんからいきものがかり、KID FRESINOまで、知名度もジャンルも様々な、非常に幅広いアーティストと関わっているわけで、かつて目標としたKneebody的なあり方を、日本で確立していると言えますよね。

松下:ミチくん(中西道彦)なんかは認められるのが遅かったなって、俺は思ってるんです。もっと早い段階で、バンドマンの中では「あそこのベース超やべえ」って言われてたと思うけど、ミチくんは自分から発信していくタイプじゃなかっただけで。でも、今はいろいろやってて、リズムセクションとして俺とミチくんの2人に声がかかったときに、俺はNG喰らうことも結構あるんですよ。「ちょっと違かった」って思われるのか、2回目は呼ばれなかったり、でもミチくんはそこに残って、そこから繋がって、結果カースケさん(河村智康)と一緒にやってたり。たまには俺にキックバックがあってもいいんじゃないかと思うんですけど(笑)、それくらい素晴らしいミュージシャンなんです。拓郎は拓郎で、俺以上に「自分がやりたいこと以外はやりたくない」っていうタイプなんですよね。カメラとか映像も好きだし、必ずしも「音楽で食う」っていうのが中心にあるわけではないのかもしれない。ただ、あいつが一番ヤセイ。

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