つるの剛士はいかにして“ボーカリスト”になったのか? 歌手デビューから10年の軌跡を本音で語る

つるの剛士が語る、歌手活動の軌跡

 ある時は「ウルトラマンダイナ」、またある時は「羞恥心」、はたまた大ヒット『つるのうた』シリーズでカバーソングを歌う歌手と、変幻自在の顔を見せながら、今年で芸能生活25周年を迎える男。その名はつるの剛士。歌手デビュー10周年を記念する最新ベスト『つるの剛士ベスト』は、DISC1にカバー曲を、DISC2にオリジナル曲を収めた2枚組で、新録音や初CD化曲も多数含む決定盤だ。ただ音楽が好きで歌い始めた男は、優れたミュージシャンとの出会いとファンの支持を得て、いかにして「ボーカリスト」になったのか? 10年の軌跡を語る本音インタビューをご賞味あれ。(宮本英夫)

“勘違い”から始まった歌手としてのキャリア

――何はともあれ10周年。おめでとうございます。

つるの剛士(以下、つるの):いやいや、そんな、もう。歌い出してから10年も経ったなんて、自分でもびっくりしています。

――でも、実はその前から、バンドを組んで歌っていたんですよね?

つるの:バンドはやっていましたけど、歌というか、ガナリというか、ウォー! みたいな感じのボーカルで(笑)。メタル/グランジ世代なので、そんな感じの曲ばっかりやっていました。だから昔ライブハウスで一緒にやっていたような人たちは、僕がポップスを歌い出して「どうした!?」ってなりましたけどね。ギターウルフのセイジさんも超びっくりしていて、「つるのくん、そっち行ったんだ」とか言われて(笑)。歌はまったく活動のビジョンにはなかったですから。

――まさにターニングポイント。仕事の質がガラッと変わったんじゃないですか。

つるの:あまり意識はしなかったですけどね。でも、僕は他のアーティストさんとは違ってタレントなので、そこに一つ「歌が歌える」という要素が乗っかってくると、いろんな人に喜んでもらえるんです。この2年で全国47カ所に行ったんですけど、会場がいつも満員で、9割は新しいお客さんなんですね。僕としては当たり前なんですけど、スタッフに「これがつるのさんの特徴だから」と言われて初めて気づいて、「じゃあこれでいいじゃん」と。テレビに出ている人が地元にやって来て、知っている曲を歌ってくれるのは嬉しいと思ってくれたらいいなと思っています。それと、若い子たちは僕がカバーしている曲の中で原曲を知らないものもあるだろうから、原曲を知ってもらう一つのツールにもなれたかなと思うし、いろいろ賛否はありましたけど、それが僕しかできないことだとしたら、すごく良かったと思いますね。

――賛否って、否はありましたっけ。

つるの:めちゃくちゃありましたよ! カバーは名曲をお借りするわけだし、それはいっぱいあります。でも10年できたのはみなさんのおかげ、名曲のおかげだなと思っています。ただ、今カバーをやれと言われてもできないですね。そんなおこがましいことできないですよ。当時の自分だからできたんですね。完全に勘違いしてました。

――怖いもの知らず的な?

つるの:それもあったし、天然だったし。そもそも僕はそういった音楽のことをまったく知らなかったので。ただテレビで歌を歌う機会があって、そこで何度か優勝させてもらったのがきっかけで、「いけるんじゃねえか?」って勘違いしてしまったというか。それで歌い始めて、ありがたいことにたくさんの人に聴いてもらうことができた。あの時の時代の風がそうさせてくれたんだなと思ったら、感謝しかないですね。

 あとは奥居(岸谷香)さんしかり、世良(公則)さんしかり、都倉俊一先生しかり、「つるのさんの歌が好きだ」と言ってくれる人が、同じ世界に……僕は同じだとは思っていないけど、プロフェッショナルなみなさんに評価していただけたのは、すごく良かったです。歌の勉強なんてしたこともない僕が、都倉先生のような方に「君の声が好きだ」と言っていただいて、曲を提供していただけたのは自信につながりました。「歌ってもいいんだな」と思いましたね。やっぱり、はじめは怖かったですから。音楽はめちゃくちゃ好きですけど、歌というジャンルは僕にとって特殊だったし、突然やってきたフィールドで、ドキドキしながらやっていたので。そこは都倉先生や世良さんのおかげで「いいんだな」と思わせていただきましたね。

――当時、カバー曲はどういう選曲をしていたんですか。つるのさんと、スタッフとの会議で?

つるの:そうですけど、あまり僕は歌謡曲を知らなくて。

――70年代の曲を歌っていますよね。「ラブ・イズ・オーヴァー」(欧陽菲菲)、「ジョニィへの伝言」(ペドロ&カプリシャス)とか。

つるの:親父が車の中で聴いていた曲は耳なじみがあったんですけど、自分から掘って聴いていたわけではなくて。歌ってみて、あらためて「日本にはいい曲がいっぱいあるんだな」と感動しながら毎回レコーディングさせてもらっていたというのが、率直な感想です。僕が原曲をさらっと聴いて、「自分だったらこういうふうに歌いたい」というものを抽出して歌わせていただきました。

――あまり研究し過ぎないというか。

つるの:そう、あえて聴き込んでいないんですよ。「僕だったらこういうふうに歌いたい」という思いだけで歌っていましたね。女性の曲が多いのも、声が高いのでキーが合うんですよ。あと、これは後付けですけど、女性の曲を男性が歌うと、みなさん原曲とは違う目線で曲を聴いてくれるんですね。それがまた良かったのかな? と思ったりして、いろいろ偶然の産物が多いんです。

――1975年生まれということは、つるのさんは80年代後半に音楽を聴き始めた少年ですか。

つるの:バンドブームの頃ですね。BOØWY、THE BLUE HEARTSから始まり、イカ天バンドがいて、そこから洋楽が入ってきて。

――真島(昌利)さん作詞作曲のオリジナル曲「死ぬまで夢を見る男」は相当嬉しかったのでは?

つるの:嬉しいというか、「これ、真島さんでいいじゃん」と思いました。マーシーがギター1本で歌っているテープが送られてきたんですよ。ヤバかったです。「これを僕はどうすればいいんだ?」「真島さんが歌えばいいじゃん」って(笑)。(奥田)民生さんもそうなんですよ(「いつものうた」作詞作曲)。デモが送られてきた時に、「これでいいじゃん」と思った(笑)。民生さんが歌って、全部演奏してるんですよ。マーシーも民生さんもめちゃくちゃ好きなので本当にどうしようかと思いました。

――「いつものうた」は世良公則さんと一緒に歌っていて、他にもthe pillowsが演奏した「シュガーバイン」、東京スカパラダイスオーケストラが参加した「夏のわすれもの」など、錚々たる顔ぶれが揃いましたよね。

つるの:みなさん本当に良くしていただいています。スカパラのトロンボーンの北原雅彦さんとは、地元の海でよく会うんですよ。世良さんとは、家に行って、二人で10時間ずっと土をこねてたりして(笑)。世良さん、陶芸が趣味なんです。世良さんは特に良くしていただいて、世良さんのおかげでいろいろな人に会えて、感謝しています。

――バンドで言うと、ELECTRIC EEL SHOCK(EES)とコラボした「Two weeks to death」は意外性がありました。

つるの:EESは、釣り仲間なんですよ。釣り番組をやっている時に知り合ったんですけど、ボーカルの森本(明人)さん、ほとんどプロですから。釣り関係のロッカーは、いっぱいいますね。COKEHEAD HIPSTERSのKOMATSUくんとかもそう。そういった繋がりのあるミュージシャンの方たちにまた音楽のフィールドで会えるというのも不思議な感じがしています。

――面白いですねえ。

つるの:そうなんですよ。だから人生、何があるかわからないなと思って、面白いですね。最初は葛藤もありましたしね。2010年のSUMMER SONICに呼んでいただいた時、当時はまだ「羞恥心」のイメージがあったから、ファンの女の子たちにキャーキャー言われたりして。そんな中、変わったことがしたいなと思って、cicadasという覆面バンドで出て行ったんですけど、ドン引きされましたからね。でも、観客エリアの真ん中では外国人がモッシュしてるという(笑)。何の先入観もない人たちはそういう目線で見てくれるんだけど、そうじゃない人は、つるの剛士のライブなのにいきなりセミの格好したメタルバンドが演奏しだしたから戸惑っていて(笑)。

――(笑)。でもやりたかった。

つるの:一回はやっとかなきゃと思ったので。そんなこともあった10年でしたね。今はちょうどいいバランスで、すごく楽しくやらせてもらっています。やっぱりパブリックイメージとか、マスに届ける大変さとか、いろんなことが勉強になったし、いいところに着地できたと思いますね。

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