TRF DJ KOO×守尾崇が語る、90年代J-POPとエイベックスサウンドが現代に伝えるもの
日本のレイヴカルチャーを牽引した小室哲哉とエイベックス
――実際、お二方とも90年代初頭は音楽制作とどのように向き合っていましたか?
DJ KOO:機材との戦いだったかな。デジタルレコーディングとか、新しい機材の導入とか。デジタルでできることが増えてきた分、勉強することも増えました。守尾君なんかはtrfの最初のホールツアー『trf TOUR '94 "BILLIONAIRE ~BOY MEETS GIRL"』あたりで機材周りの大変さをくぐり抜けてきたよね。
守尾:そうですね。やっとライブでコンピュータを使っても安心できるようになってきた時代でした。94年頃はMacを使ってましたね。僕もステージの上で楽器を弾きながら。今は音自体を再生というか、要はレコーダー的な使い方で使っていますが、この頃はMIDIで楽器を鳴らして演奏してました。
――KOOさん、『trf TOUR '94 "BILLIONAIRE ~BOY MEETS GIRL"』のツアーではどんなことを思い出しますか?
DJ KOO:小室さんがアルバムが完成して「1stツアーやるよ!」って言ったときに、スタジオでセットリストを書いてくれてことを覚えています。実際にtrfっていうダンスユニットがどういう形でライブをホールツアーで表現していくかなんて、まだ誰にも見えてなかったと思うんです。でも、小室さんの頭のなかでは完成されてたんですよ。
――trfもアルバムの中では多種多彩なジャンルの音楽にチャレンジしてきましたよね。そもそも所属レーベルであるエイベックスは、新しいサウンドへのアプローチが早かった。しかも、成り立ちでいうとそもそもインディペンデントなレーベルだったという。
DJ KOO:そうですね。90年代のジュリアナサウンドというかテクノサウンドをヨーロッパから引っ張ってきたのはエイベックスだし、そこの名残の派生で、アンダーグラウンドなダンスミュージックも使命感として網羅していたんじゃないかな。
――93年に、東京ドームで『AVEX RAVE'93』が開催され、trfも小室さんと出演されてました。The Prodigyもエイベックスからのリリースで、そのイベントに出演していたんですよね。お立ち台に溢れたあの狂乱の空間に。
DJ KOO:レイヴカルチャーを巻き込んで、色々一緒くたなイベントだったよね。プロディジーは当時、テクノとして認識されていたからね。この時期、すごい好きだったな。デジロックって呼ばれていたロックとダンスやテクノのミクスチャー感。プロディジーやケミカル・ブラザーズ(The Chemical Brothers)とかさ。最高だよね。
――去年、SNSで93年の東京ドームでのKOOさんと並ぶ小室さんの写真をアップしてましたよね。めちゃくちゃかっこいいビジュアルで。
DJ KOO:あの頃は、ビジュアルも混在してたと思いますよね。80年代からの流れのニューロマ(ニューロマンティック)とか、ハワード・ジョーンズとかニューウェーブみたいなノリとか。Jesus Jonesは、ハウスでミクスチャーでバンドだったよね。いろいろ混在している感じがtrfにはあったり、それが90年代っぽいよね。
――初期KOOさんのドレッドはJesus Jonesからの影響?
DJ KOO:そうです。小室さんがJesus Jonesのアルバムジャケットを見て、「いいね!」って言ったので次の日に。でも、当時はやってくれるところがなかなか無くて(笑)。それでやって家に帰ったら、奥さんにナマハゲみたいって言われちゃって(苦笑)。それくらいの思い切りがあったよね(笑)。
――守尾さんは、90年代初頭どのように過ごしていましたか?
守尾:僕はアマチュアからちょっとずつ仕事をし始めた頃でした。まだ20代前半ですね。YAMAHAのEOSというシンセサイザーが90年代に登場して、小室さんとそれでお付き合いがあり、大きい仕事をいただいたのがツアー『trf TOUR '94 "BILLIONAIRE ~BOY MEETS GIRL"』だったんです。そのちょっと前のTMNの終了コンサート『TMN 4001 DAYS GROOVE』もデータ制作のお手伝いをやらせていただいてました。この頃、小室さんが作業している姿を後ろで見ていて。データ制作や音ネタを重ねたりしているのを「こうやって作るんだ!」って学んで。ここでの経験が、次の00年代に活かせたなっていう思い出ですね。
DJ KOO:まだシンクラヴィアだっけ?
守尾:色々使っていたと思いますが、僕のなかで小室さんは、エンソニックのVFXとかASRを使っていたイメージが強くて。今でも、音が太いって有名なシンセなんですよ。その後、mihimaru(GT)のレコーディングで、キックの音が細いなって時に、ASRでサンプリングし直して使ったことがありました。名器ですね。「WOW WAR TONIGHT~時には起こせよムーヴメント」はリズムがジャングルじゃないですか。あれは、ターンテーブル的な発想だと早回ししてやるのでビートが崩れないんですけど、小室さんは鍵盤で作っていたんで途中で拍の表裏がずれたりして新しかったなと。海外の新しいジャンルに、小室さんの手癖というかテイストが、上手く融合されて新しいサウンドが生まれていてすごいなと思っていました。
――世界で1番売れたであろうジャングルソングですもんね。“新しいリズム、新しいビートに、メロディアスなメロディを乗せるという方程式”に“メロディのセンスは日本人好み”というかけ合わせが、90年代のひとつの発明になりました。trfの場合は、それがテクノからはじまったという。しかも、アルバム1枚目『trf ~THIS IS THE TRUTH~』の際は完全に洋楽スタイルで、早すぎた感もありながら。
DJ KOO:これはもう、小室さんがレイヴを日本でやるっていう意味で、国内市場を全く考えてなかったですよね。レイヴっていうシーンを、日本で自分で新たに作るんだってことだったんじゃないかな。このときに<PWL>とタッグを組めたことは、trfにとって大きな成功へのアプローチになりましたね。
90年代〜00年代を席巻したTKサウンド
――エイベックスの邦楽アーティスト第1号なんですよね、trfは。改めて、結成時のエピソードを教えてください。
DJ KOO:アルバム『trf ~THIS IS THE TRUTH~』の制作途中に、小室さんと会ってスタジオに参加することになりました。でも、まだ当時は小室さん以外、誰もこのアルバムがどう完成するのかわかっていなかったと思います。当時は音を埋めていくアレンジが主流でしたが、ベースとキックとリズムのみでサウンドを構築していた感じで。そぎ落とされた少ない音で淡々とキックの四つ打ちがあるというか。
守尾:『trf ~THIS IS THE TRUTH~』は、攻めてますよね。当時小室さんが作っていたなかでも、かなり激しめのダンストラックに小室さんらしいメロディが乗っていて、すごく新鮮でした。
――あと、ユニークなのがディスコやクラブイベントとも活動が連動していたこと。
DJ KOO:あれは『TK RAVE FACTORY』っていうイベントを横浜ベイサイドクラブではじめたのがスタートで。感覚的にはイベントのためのCDというか、イベントのために集められたメンバーだったんですよ。今でいう『Ultra Japan』みたいなフェスというか、そんな感覚に近かったと思います。
――キックの強さへのこだわりや音の引き算。今から考えると、EDMのカルチャーにも通じるセンスですよね。
DJ KOO:このときに小室さんが話していて印象的だったのが「人数が多ければ多いほどリズムは伝わっていくから」という言葉で。「キックだけでも何万人もオーディエンスがいたら、それでノレるよ」と。とにかく、キックの音にこだわってましたね。
――いまこそ、アメリカのビルボードチャートへランクインするアーティストのキックへのこだわりは半端ないですよね。それこそ、trf初のヒット曲「EZ DO DANCE」は、実はとてもシンプルなサウンド構成だったりします。キックだけでノレるトラックになってるんですよね。ライナーノーツでも小室さんがそんなようなことを語っていました。
DJ KOO:キックとテンポだよね。BPM140だったらテクノやトランスのテンポ、BPM135だとちょっと哀愁のある長いメロが映える。当時は、裏打ちのハット16符がマストだったよね。
守尾:そうですね。
――「EZ DO DANCE」や「寒い夜だから」のヒットなど、いわゆる歌謡曲をダンスミュージックが飲み込んでいきました。安室奈美恵、globeなど、小室サウンドが広がっていく過程で、松浦(勝人)さん率いるエイベックスチームはTKサウンドを分析。作家チームを作ってEvery Little Thingや浜崎あゆみなどで、小室さん以外の作家でも結果を出し続けていきました。大文字以降のTRFももちろん。
DJ KOO:そこは、守尾君なんか特にそうだけど、クリエイターが大事なポジションになったよね。それまでの作詞家・作曲家というよりも、もっとサウンド全体を取りまとめていく感じで。
――90年代J-POPを振り返るうえで、そこが大きなポイントかもしれませんね。一方で00年代以降はトラックメイカーのカルチャーが当たり前になっていきましたが、90年代初頭はそんな感覚はなかったんですよ。でも小室さんや浅倉大介さんから、いまに通じるトラックメイカー文化、00年代以降にも通じるJ-POPが発祥したのかなと。
守尾:たしかにそうですね。そんな意味では、作家をチームとしてファクトリー的に束ねた松浦さんもそれを意識していたんでしょうね。
DJ KOO:松浦さんはもともとユーロビートの分析をしていて、どうやってJ-POPに活かすかについてよく熱く語っていました。あと、90年代のダンスミュージックって、あくまでDJがプレイするお皿であって、ライブ感までしっかり考えることはなかったんですよ。そこでtrfがホールでライブをやりはじめたっていうことはデカかったし。たぶん、サウンドを支えた守尾君なんか手探りというか。ライブで魅せるって大変なことだったと思います。
守尾:最初、trfのバンドはキーボードとドラムとベースだけで、ギターがいなかったんですよ。人間3人とコンピュータとtrfのみなさんっていう形で。そういう意味でも攻めてましたね。ドラムとベースで生のグルーヴをだして、あとは機械でいいじゃないかっていうところが、小室さんの中にあったと思うんですね。
――trf以降のダンスミュージックカルチャーは、ダンサーをパフォーマーとして目立たせていきますよね。ここでギターがいなかったことも大きなポイントだと思うんです。―あと、最近は世界的にもスパニッシュやアフロビートのセンスをポップミュージックに取り入れるのがスタンダードになってますが、この時期のTKソングってワールドミュージックのエッセンスを取り込んでいましたよね?
DJ KOO:そうでしたね。3rdアルバム『WORLD GROOVE』とか特に。小室さんって、いろんなタイミングでその後の伏線になるようなことを入れてくるんですよ。振り返ってみるとすごさを感じますね。
――90年代のミリオンヒット連発のタイミングにも実はものすごい実験的なことをやっていたと。
DJ KOO:「BOY MEETS GIRL」で鳴っているパーカッションも全部和楽器ですからね。映画『天と地と』のサントラを小室さんがやったときにも参加されていたパーカッショニストに仙波清彦さんっていう方がいらっしゃるんですけど、実際に現場に来て鼓(つつみ)とか鐘を叩いてくれて、パーカッシブにしたんですよ。
守尾:チャンチキ(金属製の打楽器の一種)みたいなのも入ってましたもんね。