荏開津広『東京/ブロンクス/HIPHOP』第10回:ディスコが音楽を変容させた時代

 1968年、のちにQFRONTや横浜みなとみらいを手がけた浜野安宏がプロデュースし、赤坂にオープンした「ムゲン」では、DJブースが可動式で中空にせり出し、70年の大阪万博の幾つかのパビリオンの照明と演出も手がけた、照明アーティスト藤本晴美のサイケデリックなライトショーが随時行われていたことをあらためて書いておく。

 ディスコは、「ウッドストック」を頂点とした、マーシャル・マクルーハンによる“メディアはマッサージである”というカルチュラルな、ある種の修辞の現実化された空間でもあった。そのことはアメリカの例を一瞥する以前に、やはり「ムゲン」と並び赤坂にオープンした「スペース・カプセル」に、黒川紀章(設計)、一柳慧(構成・演出)、粟津潔(グラフィックデザイン)、石井幹子(照明デザイン)、寺山修司、石原慎太郎、谷川俊太郎(協力)が関わり、白石かずこのポエトリー・リーディングを含むパフォーマンスが毎日行われていたことからも判る。

 「ムゲン」が、DJの他に、B.B.キング、サム&デイヴに続いて、1971年、アイク&ティナ・ターナーを招聘していたことは、江守の『黒く踊れ!』にも出てきており、その様子は、半ばそこに集まるナイトライフを楽しむ新しい時代の新しい職業を持った人種と、彼らに憧れる取り巻きや子どもたちへの好奇の眼差しもあって、音楽誌だけでなく『平凡パンチ』などファッション/カルチャーを扱う雑誌でも取り上げられた。

 その2年後の1973年2月、ジェームス・ブラウンによる東京から横浜、名古屋、大阪、沖縄までの計6回のコンサートが、日本におけるソウル/ファンクの人気を決定づけた。

Rhapsody in White『Love Unlimited Orchestra』

 ディスコというカルチャーを通して1970年代を改めて検証していく『Hot Stuff:Disco And The Remaking Of American Culture』(W.W.Norton,2010)のなかで、初めてアメリカのロック雑誌『ローリング・ストーン』に“パーティ・ミュージック”、“ディスコテック・ロック”という言葉が記事に使われたのは同じ1973年だと、南カリフォルニア大学の教授、アリス・エコルズは指摘している。流行の向きとヒットの指針としてラジオを追っていた音楽業界の人々は、ディスコ、もしくはクラブ、日本ではその始まりの時期に“踊り場”とも呼ばれていた種類の場所について注意を払っていなかった。そこでは、アフリカのカメルーンのサックス・プレイヤー、マヌ・ディバンゴの「Soul Makossa」やバーラバスの「Woman」、もしくはエディ・ケンドリックスの「Girl You Need A Change Of Mind」など、ポストR&B的な構造と歌詞を持つ曲が満員のフロアを朝方まで揺らしていたが、こうした曲はチャートにはまだ上がって来なかった。エコルズによれば、最初のディスコヒットはバリー・ホワイト率いるThe Love Unlimited Orchestraの「Love’s Theme」(1973年)である。1974年には、高橋透、松本みつぐ、モンチといったその後のシーンを牽引していくメンバーが東京のディスコのDJになっている。

 1960年代終わりから70年代後半は、ダンス・ミュージックがファンク/ソウルからディスコへと移行していって、映画『サタデー・ナイト・フィーバー』とBee Geesによるそのサウンドトラックが世界中のダンスフロアに響いた10年間だった。

 そうしてディスコをロックと比較する。ライブラリー・オブ・アメリカの共同設立者である文芸批評家、故・リチャード・ポワリエは『The Perfoming Self / Richard Poirier』(CHATTO& WINDUS,1971)において、ある章を丸ごと使いながら、1967年にリリースされた“サマー・オブ・ラブ”の象徴だったアルバム『Sgt.Pepper’s Lonely Hearts Club Band』を論じて、The Beatlesとポピュラーカルチャーの重要性について読み手に注意をうながす。

「人々はまるで、一世紀前の人々がディケンズを読むようにThe Beatlesの録音された音楽を聞くのである」

 私たちは、ポワリエが「いってみたらワグネリアンな」と「A Day In The Life」の登場人物の感情の動きについて寸評するように、例えば、Bee Geesの「Stayin’ Alive」の冒頭の数行――<オレは女たらし/話す暇はない/音楽が鳴ってる、女はあったかい>に続く、<ア、ハ、ハ、ハ、ステイン・アライヴ、ステイン・アライヴ、ア、ハ、ハ、ハ、ステイン・アライヴ>という歌詞について分析できるだろうか。(第11回につづく)

■荏開津広

執筆/DJ/京都精華大学、立教大学非常勤講師。ポンピドゥー・センター発の映像祭オールピスト京都プログラム・ディレクター。90年代初頭より東京の黎明期のクラブ、P.PICASSO、ZOO、MIX、YELLOW、INKSTICKなどでレジデントDJを、以後主にストリート・カルチャーの領域において国内外で活動。共訳書に『サウンド・アート』(フィルムアート社、2010年)。

『東京/ブロンクス/HIPHOP』連載

第1回:ロックの終わりとラップの始まり
第2回:Bボーイとポスト・パンクの接点
第3回:YMOとアフリカ・バンバータの共振
第4回:NYと東京、ストリートカルチャーの共通点
第5回:“踊り場”がダンス・ミュージックに与えた影響
第6回:はっぴいえんど、闘争から辿るヒップホップ史
第7回:M・マクラーレンを魅了した、“スペクタクル社会”という概念
第8回:カルチャーの“空間”からヒップホップの”現場”へ
第9回:ラップ以前にあったポエトリーリーディングの歴史

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