大森靖子の「現在」を鮮やかに浮きあがらせていたーー宗像明将の『"kitixxxgaia"』最終公演レポ
大森靖子の全国ツアー『大森靖子 2017 LIVE TOUR "kitixxxgaia"』の最終公演が、2017年7月20日にZepp DiverCity(東京)で開催された。その本編で私は当初、自分の心の置き所がないような不思議な感覚を味わっていた。
ステージ上の大森靖子はMCが少なく、楽曲を続けて演奏するので拍手をするタイミングすらない箇所もある。一方、ファンはまるでフェスのようにときに声をあげ、ときに腕を振りあげていた。そうした光景は、2012年に初めて大森靖子に出会った私の目には、「現場」の変質として少なからぬ衝撃があったのだ。
しかし、これは大森靖子がスターとしての階段を急速にのぼっている証拠なのだ。「スター」を彼女の言うところの「神」に置き換えても別にかまわない。大森靖子の武道館公演を見たいと願ってきたはずの自分の保守性を、大森靖子によって暴かれたと言ってもいい。
変わっていく。変わることができる。それは大森靖子というシンガーソングライターのとてつもなく強力な武器だ。
この日のライブでもっとも素晴らしかったのは、キーボードの伴奏のみで歌われた「M」だった。この楽曲は最新アルバム『kitixxxgaia』の「ガイア盤」(2CD+DVD)にしか収録されていない。私は「ドグマ盤」(CD+Blu-ray)を買っていたので、「M」を聴くこと自体が初めてだった。
「M」の来歴は知っていた。ある人物からの手紙をもとにしたという楽曲だ。しかし、その手紙の送り主がAV女優であったことは、この日のライブで歌詞を耳にして初めて知った。その瞬間、「大森靖子」という演者と、彼女が歌う楽曲の主人公がイコールではない事実を改めて突きつけられたのだ。
シンガーソングライターは自身の内面を歌うものだという「信仰」が日本には古くからある。しかし、それを以前からあっさりと否定してきたのも大森靖子だった。『ユリイカ』2017年4月号の大森靖子特集でも、小野島大によるインタビューに対してこう語っている。
「面白い人がお客さんにいっぱいいるんだもん。(中略)自分のことを歌おうとすると、同じことを歌わなきゃいけなくなるじゃないですか。」
この発言は本音だろうが、自分以外のことを歌うのには別の理由もあるだろう。この日、大森靖子がアコースティックギターを抱えながら歌った「マジックミラー」には以下のような歌詞が出てくる。
<あたしのゆめは/君が蹴散らしたブサイクでボロボロのLIFEを/掻き集めて大きな鏡をつくること>
その「鏡」は、Zepp DiverCityという大規模な会場でも、ファンに対して見事に機能しているように感じられた。その時点で、この日のライブは成功していたと言っても過言ではない。
『大森靖子 2017 LIVE TOUR "kitixxxgaia"』の最終公演では、開演前からステージ上に十字架と銅鑼が隠すでもなく置かれていた。そして荘厳な音楽が鳴り響くと白いドレス姿の大森靖子が登場し、十字架を抱えて銅鑼を鳴らした。「ドグマ・マグマ」のスタートである。歌詞にはマイノリティへの視点、そして「ジャパニーズ」「戦争」といった単語も登場する。『kitixxxgaia』の冒頭を飾っていたポリティカルな楽曲が、この日のライブでも最初に演奏された。
5曲目の「地球最後のふたり」を歌い終わった後、大森靖子は一気にこう語った。
「皆さんがひとりひとり大切に生きて持ってきてくださったクソどうでもいいことを全部絞りだして、楽しかったことも嫌だったことも全部音にして、今日も美しいステージにしようと思っています、一緒に作ってください、よろしくお願いします」
前述の「マジックミラー」や「M」にも通じるこの発言は、大森靖子が作ろうとしている音楽やライブを簡潔に言い表していた。
「ピンクメトセラ」ではダンサーに「私。」が登場。大森靖子によるアイドルへの提供曲の中でも突出した作品となった、The Idol Formerly Known As LADYBABYの「LADY BABY BLUE」もセルフカバーされた。℃-uteへの提供曲「夢幻クライマックス」のセルフカバーでは、バンドメンバーがステージを去り、7人のダンサーが登場した。誰かと思うと、それはアップアップガールズ(仮)だった。
冒頭で大森靖子が「大森靖子がスターとしての階段を急速にのぼっている」と書いたが、それを痛感したのは「オリオン座」だった。彼女の作品の中でも屈指の美しいメロディを持つ楽曲である。バンドメンバーが歌う中、大森靖子自身はファンに対して指揮をするかのように動き、歌ではなく身体を使って表現し続けた。
そして、大森靖子は指でオリオン座を描いた。その瞬間の彼女の姿は、「スター性」や「カリスマ性」といった言葉では表現しきれない、見る者に突き刺さるかのようなものだった。