『POP'N SOUL 20~The Very Best of NONA REEVES』インタビュー
NONA REEVES 西寺郷太が語る、“歌謡曲”と向き合った20年 「自分で失敗して学んでここにいる」
「『歌詞の乗せ方の発明』を見つけられた天才が愛され、残っていく」
――そう、ランキング的なことを言えば、僕は2ndアルバム『FRIDAY NIGHT』をとりわけ愛聴していたのですが、先ほど調べたところ、なんと初週オリコン圏外だったという……。
西寺:『FRIDAY NIGHT』、全然売れなかったんですよね(笑)。すごい良いアルバムだったし、今も褒められるんですけど。ただ、今回のベストに「BAD GIRL」とか「STOP ME」が入ったことで、ちょっと報われたというか。「BAD GIRL」をシングルとして出したときは、結構ビックリされたんですよね。いわゆるAOR、アーバンなボズ・スキャッグスとか、マイケル・ジャクソンの「Rock with You」とか、ああいう70年代後半の、それこそジェフ・ポーカロとかジョン・ロビンソンが叩いていそうな感じの曲だったので。そういう音楽をやるっていうのが、当時圧倒的に変なことだったというか、「急に?」っていう(笑)。その頃は、pre-schoolやSUPERCAR、NUMBER GIRLが旬な頃なので。今、聴いた方が「BAD GIRL」がハマるはずです。『FRIDAY NIGHT』は、僕らにとってはデビューアルバムだって感じがある。それまでが紀元前で、『FRIDAY NIGHT』がゼロだったんじゃないかな。よく「デビュー以来、ずっと変わってない」って言われるんですけど、音楽的にはそれ以前は違いますね。それこそ、“紀元前”には「CESSNA」っていう結構速いギターポップ……それこそ、ブラーとかに影響を受けた曲もキラー・チューンだったりしたので。
――ちなみに、僕が最初に聴いたのは、『QUICKLY』というインディーズ時代のアルバムでしたが、確か当時は渋谷系というか、ネオアコの文脈で知ったような気がします。
西寺:その前に出した『SIDECAR』っていうアルバムで、ちょっと印税が入ったんですよね。それが僕にとっては初めて音楽で稼いだお金で、そのお金でギブソンのJ50っていうアコギを買って、嬉しくなって弾いていたら、『QUICKLY』はアコギが入っている曲ばっかりになっちゃったんです(笑)。そのあとメジャーで出した最初のシングル「FORTY PIES」もそうなんですけど。だから、新しい楽器を買ってハッスルしちゃったことも、実は音楽の変化に関係があって。僕らの最初のスタートって、下北沢のギターポップシーンだったんですよ。当時は、オアシス、ブラーが全盛で、その頃から僕は「ビートルズとモータウンが好きです」って言っていたんです。で、振り返ればビートルズから派生したブラーでありオアシス、モータウンから派生したマイケル・ジャクソンでありワム!だとして、「ビートルズ色」がどんどん減って、「モータウン色」が増えていって今に至るって感じはありますね。
――そこでだんだんブラックミュージックのほうに比重が移っていったのは、何か理由があったのですか?
西寺:理由のひとつが、ビートルズが好きなバンドマンが多かったこと。混んでいるところに攻めていってもしょうがないなっていう。奥田民生さん、山崎まさよしさん、斉藤和義さんとか、少し年上の方々がビートリーなことはもう極めていたし、TRICERATOPSやGRAPEVINEとかのギターバンドもデビュー時から完成していた。飲食店で言えば、この駅前にはもうラーメン屋さんいらない、みたいな感じですね(笑)。で、もう一個、ギターバンドっぽいのをやめた理由は「作詞家」として。日本語で「ビートリー」な楽曲をやるときに、僕のなかでは落としどころが作れなかったんです。インディーズの頃は、英語で歌詞を書いていて、それはそれで好きだったし、自国語じゃない言葉で歌詞を書くこと自体はいいと思っているんですけど、10年、20年と長く続けるときに「それで大丈夫なのかな?」って。『FRIDAY NIGHT』とそれまでのいちばんの違いっていうのは、英語のなかにちょこっと日本語が入ってますっていうものから、基本的に全部日本語にしたっていうところだったりするので。
――なるほど。
西寺:で、そのときに、自分のシンガーとしてのキャラクターで日本語を乗せるのであれば16ビートのファンキーかつメロウなグルーヴかも、と。たとえば、「パーティーは何処に?」とかは、ちょっとリズミックなラップ的なものも、「これ、英語だったら良かったのになあ」って思わないクオリティでできるんじゃないかなって。それが、僕らがどんどんダンサブルになっていった要因です。やっぱり、歌謡曲には、言葉の選び方、日本語が持っている個性みたいなものの落としどころが、絶対あるはずなんです。井上陽水さんにせよ、大滝詠一さんにせよ、宇多田ヒカルさんにせよ「歌詞の乗せ方の発明」を見つけられた天才が愛され、残っていく。じゃあどういうのがNONA REEVESでできるんだろうって考えたときに、そのひとつの答えが、今回のベストにも入っている「LOVE TOGETHER」であり「DJ!DJ!~とどかぬ想い~」だったと。
――今、「LOVE TOGETHER」が出てきましたが、あの曲は筒美京平さんがプロデュースをしていて。そのへんから、日本の歌謡曲のテイストを明確に意識するようになっていきましたよね?
西寺:そう、だからもうひとつ、僕は違うなあって思っていたのは、黒人音楽は好きなんだけど、黒人音楽の歌手みたいに歌いたいとか、実際にアメリカに住んで自分のボーカルを試したいとか、そんなことは思ったことがなくて。それはそれですごい正しい道なんだけど、僕が考えていたのは、そういう黒人音楽のエッセンスを取り入れた日本の歌謡曲っていうものの面白さと、自分のバンドをミックスできないかということだったんです。そういうグループって、あんまりいないんじゃないかなって思って。たとえばグラミー賞を見ていると、実はカントリーの人たちが、ものすごく賞を獲っていて、いまだにアメリカでは、カントリーが愛されているわけじゃないですか。で、我々日本人からすると、あれだけはわからない、興味が持てないっていう発想になりがちなんだけど、僕は日本にもそういうカントリー的なものが、絶対あるはずだと思っていて。で、その常套句として「カントリーは、日本で言うところの演歌だ」みたいなことが言われるんだけど、僕は「ホントにそうか?」と。演歌って、今の子は聴かないじゃないですか。僕らが子どもの頃は、「さざんかの宿」「北酒場」「命くれない」とか、そういう演歌の特大ヒット曲みたいなものがあったけど、今はあんまりないですし。若い演歌歌手の人はいるけど、今は特殊な存在になっていますよね。でも、カントリーは、テイラー・スウィフトやマイリー・サイラスたちがどんどん出てくるじゃないですか。で、そういうものを見ながら、日本にとってのカントリーって何だろうって考えていたときに思いついたのが、ジャニーズなんですよ。日本におけるカントリー的なものっていうのは、ジャニーズ音楽なんじゃないのっていう。それが、あちこちで話している僕の説なんです。
――なるほど。ジャンルとしての話ではなく、シーンにおける存在感として。
西寺:そう。ジャニーさんが作ってきたジャニーズ音楽っていうのは、フォーリーブスの時代からあるけど、特にマッチ、トシちゃん、それから少年隊、シブがき隊、光GENJI……で、それからはずっとSMAPですよね。そういうものが、良し悪し、好き嫌いは置いておいて、もう40年ぐらいずーっと日本の音楽のど真ん中にあるという事実。アメリカ人が何でカントリーが好きかっていうと、小さい頃から家族やお茶の間で聴いていたからだと思うんですよ。そういう意味で、日本の音楽にとってのカントリー的な部分は、ジャニーズ音楽のユニゾンだったり、きらびやかなストリングスだったり、そういうものじゃないか、と。
――J-POPという言葉が生まれる前から、チャートの中心に居続けた、一連の歌謡曲というか。
西寺:そうなんですよ。新しいスターが一瞬物珍しさで、クールだなってバーン!と広まっても、その「カントリー」的要素がないと愛され続けるのは難しいのかなって。そうやってジャニーズが長きにわたり蒔いた種が、さらにいろんなところに伝播していて……たとえば、AKB48の曲を書いている井上ヨシマサさんは、光GENJIの作曲もされていた方だし、それこそ秋元康さんは、少年隊の「デカメロン伝説」やV6の「MUSIC FOR THE PEOPLE」の歌詞を書いていたりするわけです。そうやって「ジャニー塾」で学んだ人たちが、そのノウハウを他の場所でポーンと出している。で、僕らもそうやって、ジャニーさんが作ってきた音楽の、ここがいいなっていう部分を混ぜていったのが、「LOVE TOGETHER」や今回の「O-V-E-R-H-E-A-T」だったりするんです。もちろん、僕らはバンドだから、その抽出の仕方は全然違うんですけど、作り方のメソッドみたいなものは、「LOVE TOGETHER」が入っている『DESTINY』っていうアルバム以降は、どこかに注入されているなと。