『Music Factory Tokyo』スペシャルインタビュー
SexyZoneや西野カナ、AAAを手掛けるSiZKの作曲術「構造的な部分より『聞かせ方』を研究していた」
「少しでも『自分』を出そうとあがいてたのかもしれない」
――和音がまったくわからない状態から、独学でどのようにスキルを身につけていったのですか?
SiZK:とにかく試行錯誤ですね。自分が作ったものとCDの音を聞き比べてみて、「ここからどうやって近づけていこう?」みたいな。このドラムの音はどうすれば出るのか?とか、トライアンドエラーの繰り返しです。当時は機材も限られていたので、その中でなんとか工夫しようとするわけですよ。それで、「あ、こうするとこういう音が出るんだ」っていう経験を、少しずつ積み上げていったという感じですね。なので楽曲の構造的な部分よりも、ドラムの音色だとか、そういう「聞かせ方」の部分を研究していた感じですね。
――レコード会社への売り込みも、その頃から始まったのでしょうか。
SiZK:そうですね。レコード会社とか芸能事務所の連絡先が掲載されている季刊誌『Musicman』を買ってきて、片っぱしからデモテープを送ったんです。当時はMDでしたね。全部で50社くらいかな。連絡があったのは、今所属している事務所のスタッフだけだったんですよ。しかも夜中の3時に電話がかかってきた。17歳の少年からしたら、あまりにも怪しくて最初は警戒しましたけどね(笑)。
――「17歳の子が作ったトラックとは思えない完成度」だと驚かれたそうですが、楽器も弾けない、コードも打ち込みの仕方も知らないっていう状態からわずか数年で、よくそこまで上達しましたよね。
SiZK:曲としては成り立つようになってたんでしょうね(笑)。もう、「これしかない」っていう気持ちで、のめり込むようにやっていましたから。デモテープのタイトルとか、ラベル作りも結構こだわったんですけど、それは思いっきり小室さんの影響です。曲名は番号だったりとか。
――そこはやっぱり小室さんなんですね。事務所から連絡があって、そのあとはどうなったのでしょう。
SiZK:てっきり、すぐにでもデビューできるものだと勘違いしてたんですが、当然そんなことはなく(笑)。上京して専門学校へ通いながら、最初はリミックスやトラックメイキングの仕事などをしていましたね。当時はアーティストデビューを目指していたので、作家になるという意識はあまりなかったです。
――なかなかデビューできずにいた頃、迷いや葛藤はなかったのですか?
SiZK:ありましたね。「なんでデビューできないんだろう」とは思いましたし、小さな挫折みたいなものは何度も味わった。よくわからない、暗闇の中にいる感覚っていうのはあったけど、「とにかくやり続けるしかない」と。
――転機となったのは、どのタイミングなのでしょうか。
SiZK:まずは二十歳くらいのときですね。僕はずっとインスト曲ばかり作ってきたので、歌モノのメロディがあまり得意じゃなかったんですね。その頃はアートフル・トジャーやクレイヴ・デイヴィッドのような、2ステップにハマっていて。そういうトラックを作ってたら、コンペに通っちゃったんです。それが僕にとっての最初のキャリアとなる山本領平さんの「Set Free」。この時のトラックは、歌メロが入らないんじゃないか?っていうくらい音を詰め込んでしまって、「もう少し音数減らしたら?」って言われたのを覚えています(笑)。
――作家というよりも、アーティスト志向だった?
SiZK:ええ。少しでも「自分」を出そうとあがいてたのかもしれないですね。あとは、専門学校へ通うようになって、色々と知識もついてきて。例えば「繰り返しのフレーズも、最初だけ響きを変えるとこんなに印象が変わる」とか、そういうことを色々試してみたいっていう欲求もありました。
――では、専門学校へ通うことでソングライティング能力は飛躍的に伸びましたか。
SiZK:伸びましたね。それに、理論的なことだけじゃなくて、仲間が増えたことも大きいですね。自分以外で、同じような音楽をやっている人たちがいるっていうのは大きな刺激になりました。Blu-Swingのメンバー半分くらいは同級生だし、3B LAB.☆SのキーボーディストだったSHOJI-METASONIK(川代祥治)も同じ学校で、僕の別名義★STAR GUiTARでサポートでピアノを弾いてくれていたり。ニコニコ動画で有名なhalyosyも、学校の先輩で学生時代から仲が良かったですね。
後編【「ほんの一瞬だけど、ものすごく違和感のある音を忍ばせる」 SiZKが楽曲に込める“自分らしさ”を語る】へ続く
(取材・文=黒田隆憲/写真=竹内洋平)