香月孝史『アイドル論考・整理整頓』 第八回:アイドルの「成熟」(その三)

Perfume、AKB48、E-girlsの現在地から考える、女性グループにとっての「成熟」

 公開中の映画『WE ARE Perfume -WORLD TOUR 3rd DOCUMENT』は、2014年に行なわれたPerfumeのワールドツアー及び2015年に出演したSXSW2015の裏側を追ったドキュメンタリーだ。Perfumeの3人をアイコンにしつつも、振付師のMIKIKOや映像等の演出を手がけるライゾマティクスの真鍋大度らを含めた、チームとしての成熟度の高さが強く印象に残る同作は、時折“アイドルのドキュメンタリー映画”という共通項をもって、近年のAKB48ドキュメンタリーシリーズとの対比で論じられている。AKB48のドキュメンタリーの代表的なイメージはおそらく、苛酷さやメンバーの疲弊を剥き出しに見せるような絵だろう。それと対比するならば、同じくライブの裏側に密着したドキュメンタリーである『WE ARE Perfume』は、凝集度の高いチームが目の前の展開に淡々と対峙していく作品といえる。それらはもちろん、それぞれのグループの一面のリアリティではあるはずだ。

 しかしそもそも、それらのドキュメンタリーはそれぞれの製作側が「何を見せたいか」によって制御されている。Perfumeの3人が明らかな疲弊を見せる瞬間を切り取ることも、やろうと思えば可能だろうし、AKB48のライブに大人数なりの細やかな連携を切り取って見せることだって同様に可能だろう。すでに何編ものドキュメンタリー映画が製作されているAKB48に関していえば、寒竹ゆり監督によるドキュメンタリー第一作は、AKBドキュメンタリーのパブリックイメージを作り上げた高橋栄樹監督による二作目以降とは切り取り方の大きく違う作品である。つまり、AKB48というひとつの組織の中でも、グループが大きくなるにつれて何にフォーカスが当てられるかには変化が生じている。その意味でいえば、双方のドキュメンタリーに映った姿は、あくまで一側面でしかない。

 とはいえ、このような両者のドキュメンタリーの見せ方の差異には、各グループ特有の必然もある。もちろん、AKB48が混沌や人間関係のドラマを過剰なほどに強調してみせるのは、それが多人数グループの面白さ、スリリングさを効果的に見せる方法だからということもあるだろう。ただし同時に、そのようなドラマの強調は、所属メンバー個々にとって実際的な機能を果たしてもいる。この連載では2つ前の回からアイドルと「成熟」について考えているが、前々回に確認したのは、AKB48に代表される多人数グループの場合、基本は将来的にソロでそれぞれの道を見つけるためのステップとして、グループという場が位置づけられているということだった。この場合、各メンバーはまだ将来の活動方針を模索中の立場になるし、いわば「売り出し中」の身としてグループでの日々を過ごすことになる。ドキュメンタリー映画で人間関係のダイナミズムや感情の起伏を強調することも、選抜総選挙のような催しも、種々のユニットやソロ活動も、それ自体が一大コンテンツになってはいるが、他方でまだその一つ一つが、売り出し途上の多数のメンバーたちを縁取るようなドラマを与えたり、適性を探り当てるための機会をもたらすイベントでもある。AKB48のドキュメンタリーシリーズが、時に過剰に「ドラマ」を見せる群像劇であることは、そうした実際的な機能と地続きでもある。それは「卒業」を習慣化させているグループの宿命なのだろう。

 そう考えると、『WE ARE Perfume』はそもそも、人間関係のダイナミズムや感情の起伏によってメンバー個々を際立たせる必然がない。つまり、固定されたメンバーで成功を収めたPerfumeの3人にとって、Perfumeに在籍すること自体がひとつの成熟した姿であり、グループへの所属は「売り出し中」を意味しない。この点、循環していく他数のメンバーたちによって巨大なイベントが実現していくAKB48とは、エンターテインメントの性質が大きく違っている。それは個々人やそれぞれのグループの優劣の問題ではなく、メンバー循環を前提とするグループか、メンバー固定型のグループかによって否応なく生じる性質の違いである。ともに同時代に人気を博す「アイドルグループ」ではあれ、この二者を共通の位相で語ろうとすることはそもそも非常に難しい。

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